ちからたのみ 知恵にまかせ、

 われと道を えらびとらじ。

ゆくてはただ 主のまにまに

ゆだねまつり 正しくゆかん。

        「賛美歌 『信頼』 285番−2」

 

Like a rolling stone.

 

 正しい、という言葉に、最近敏感になっている。

 何が正しく、何が「正しくない」のかなどという事は、半分人間任せになっている事が多いからだ。

 もちろん、そんな事をいちいち考えていたのでは社会が成り立たなくなるのは分かっていたし、ことさら主張したりもしない。

 しかし、それが自分の精神をざらつかせているのであろう事も、類家小五郎は知っていた。

 自分(達)がやっている事が本当に正しい事なのか、という事は人間誰しもぶつかる問題であろう。しかしそれを越えてこそ、超越し乗り越えてこそ、正義が「正義」となりうるのではないか、と思う。

 様は力と力、竜と竜の「喰い合い」だろう。

 しかし、真理はそこに潜む。

 パンドラの箱の中に希望があったように、醜い争いの果てに、果てしない喰い合いの末に、正義は証明される。

 罪人達の血と臓腑を対価として。

 

 パタン、と戸棚の扉が閉まり、その音で我に返った。

 手元を見れば、なみなみと注がれすぎたコーヒーがフィルターから毀れてしまって、テーブルに黒い池が出来ていた。

 「うぅおっ!?・・・っ、あつっ!!!」

 ポットを慌てて取り上げすぎたのか、飛んだお湯の飛沫が手にかかる。少々乱暴にポットをテーブルに置くと(6000円もするポットなのに!)、ため息をついて横に置いてあった布きんでコーヒーを拭った。

 (ボーっとしてるなぁ)

 だらしなくあけっぴろげた前身ごろを寄せて、類家はぼりぼりと頭を掻いた。

 無理もない。

 ここのところ満足に眠れない日々が続いているのだ。もちろんこんな事で体調を崩すようなヤワな体はしていないつもりだが、精神面では意外に消耗しているらしかった。

 (淫獣がナリを潜めてる・・・ってのも気になるしな)

 霊体は媒体である人間の「素体」なしでは本来の力を発揮することは出来ない。ましてや相手はあの田崎に憑いていた霊・・・淫獣だ。

 誰かが憑依される前に処刑しなければならない・・・いや、もう既に憑いてしまっているのかも知れないが。

 

 ふと、背後に誰か居るような気がして振り返る。

 刑務官の服を纏った斎原が、類家の頭一つ高いところからこちらをじっと見つめていた。

 無造作に巻かれた左顔面を隠す包帯と対象的に露出している部分は驚くほど整っている。

 長い睫毛、すっと通った鼻筋、薄い唇。

 口の端に薄く笑みを浮かべてはいたが、冷たく硬質な感じを受けるのは、やはり彼がもうこの世のものではないからなのだろうか?

 つ、と彼の右腕が動き、類家の右肩に置かれた。そのまま滑るように胸板の前へ。

 質量はもっていないはずなのに触れられたような感じがして、類家ははっと斎原の手をみやった。

 左手が左脇を通って、前身ごろを抑えている左手にそえられる。その途端、類家の手は力を失い重力にしたがって垂れ下がった。

 

 ふわり、と引っ掛けていた寝巻きが落ちる。

 

 「さ、斎原・・・?」

 身をよじろうとして、体が動かないのに気づく。そのままわき腹をなであげられ、肌が粟立った。

 「さ・・・!」

 抗議の声を瞳で遮ると、胸板の前にあった手が上へ滑り、ついと頤をもちあげた。

 相変わらず、斎原は冷たい笑みを浮かべたままだ。自由にならない自分の体にしたうちしつつ、類家は精一杯彼を睨みつけた。

 どういうつもりだ、と心の中で罵る。彼は自分に憑いている。だからある程度の事は口に出さなくても分かる筈だった。

 しかし、彼はそれには答えず、代わりに首筋に口づけを落とした。

 霊には質量はない。しかし、温くやわらかい「もの」が首筋を行ったり来たりしているような感覚があった。

 不思議と、嫌悪はない。

 だからこそ、類家は困惑していた。

 妙な感覚が背筋を這い登ってきて、彼はそれを逃がすかのように細切れに息を吐く。

 

 ふわり、と視線の端に白いものが舞った。

 長く、細いもの。

 斎原の包帯の端だ。

 

 顔の包帯がゆるゆると解けていって、左顔面の「穴」があらわになった。

 傷口からは今でも血があふれている。

 その一筋が、類家の背中に落ちて、その感覚に類家は低くうめいた。

 

 生ぬるい血の感覚。

 体を這う、斎原の手。

 断続的に起こる、緩い快楽。

 

 ああ、これは「喰い合い」だ。

 喰われているのだ、俺は。

 

 頭の芯がしびれるような感覚がして、類家は気持ちだけ頭を左右に振った。

 目の端に彼を捉える。

 閉じられていた彼の瞳がピクリと動き、長い睫毛がゆっくりと持ち上がった。

 緑とも、黒ともつかない不思議な色。

 光を映さないその隻眼で、彼は今一体「何」を見ているのだろう?

 

 

 

 ぼやぼやするな、と彼が攻め立てる。

 「的」は在ると。

 貫く武器はあるのだ、と。

 斎原の手に握られている鎌。

 剣呑に光を跳ね返すそれのみ、自分達の信じる「それ」のみが、自分達の正義を証明する。

 

 たとえそれが最終的に自分に跳ね返ってくるのだとしても、奔り続けるしかない。

 

 往く道が何処にもつながっていないのだとしても、

 血に塗れる運命だとしても、

 

 奔りだしてしまった自分達に、もう止まる術は残されていない。

 全ては転がる石(ローリング・ストーン)のように、行き着く先へと流れ着くしかない。

 

 

 

 

 類家は小さくため息をついた。