遠いところで祭囃子が聞こえる。

近くへ行けば血が騒ぐ喧騒も、遠くで聞けばなぜこんなに物悲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もうそんな季節でしたね」

何度目かの交わりの後、ふとした間に聞こえてきた祭囃子に新城はそう漏らした。

 

七夕、と呼ばれる祭りの日。そういえば通りの家々にはみな笹が仕掛けられている。

さやさやと笹が擦れる音が、夜風に乗って薄く開けられた障子からそよいだ。

7月7日に織姫と彦星が一年に一度の逢瀬をする。

戦場に出ている自分達には全く関係のない事だと思っていたが、知らず知らずの内に織姫と彦星よろしく逢っていたというわけだ。

 

「と、りあえず・・・退いてくれ・・・」

 

息も絶え絶えに自分の下から聞こえてきたのは織姫、もとい、笹嶋の声だ。

未だ硬く熱をもっている自身は不満げであったが、笹嶋が先に意識を飛ばしてしまっては意味がない。

新城が中に入ったままだった自身を引き抜くと、笹嶋の口から吐息が漏れ、布団にとろりと白い液体が零れる。

それにまた欲情しそうになって、つくづく自分は若いなと苦笑を漏らした。

 

逢瀬の度に使用しているこの屋敷は、元は駒城の別荘だった所だ。

なんだかんだで手入れもされず、荒れ放題になっていたのを新城が保胤から買い取った。勿論、彼は金などいらんと言っていたが、適当に理由をつけて半ば強引に受け取らせた。

何故そうしたか。

単純に後腐れがないようにと思っただけだ。それとも何もかも借り物・もらい物では格好がつかないとでも思ったのか。

ともかく情婦(・・・)を連れ込む所ぐらいは、自分の手で何とかしたかった。

保胤の事は信じていない訳ではなかったが、彼が示す無償の「親愛」を信じ切れていない自分がまだどこかに居るのかもしれない。

あれだけよくされていて、と頭の端に罵る言葉が浮かんだが、頭を軽く振ることで消去する。

 

自分にとって良い事が、他人にとって良い事になるとは必ずしも限らない。

 

そう、人生は残酷だ。自分と同じ様に。

 

 

脱ぎ捨てられていた浴衣をだらしなく着て、薄く開けられた障子越しにぽっかりと浮かぶ月を眺める。

吹き込むそよ風が、熱を持った肌には気持ちが良い。ふと振り返ると、彼も同じく褥中から月を眺めていた。

「こんな時になんだが、今夜は随分と綺麗に月が出ているね」

大抵七夕は季節の関係で雨が降るんだが、と続ける笹嶋に新城はうっそりと笑う。

「事後に風流を語れるとは。随分と体力がついたんじゃないですか?」

「お陰様でね」

ふふふと笑う顔はやはり体と同じく痛々しい。しかし罪悪感は珍しく湧いてこなかった。七夕、逢瀬という言葉が、それを軽くしているのか。

そうだとしたら、なんと安上がりな気持ちだろう。

 

これは逢瀬でも、ましてや自分達は恋人同士でもないのに。

 

「君の屋敷(いえ)でも、七夕の行事をしたりはするのかい?」

枕元の細巻入れを引き寄せながら、笹嶋は尋ねる。それにええ、と気だるげに頷いてから、新城は続けた。

「そういった行事は一通り――とはいっても最近はそれ所ではなくなっていますがね」

 

幼少の頃、願いを書くのよ、と義姉が持ってきた短冊には結局何も書けなかった。

叶って欲しい願いはあった。しかしそれは七夕の夜には酷く不釣合いな、歪な願い。

月明かりの元、ぎこちなく寄り添う義姉と義兄の後姿を見て、子供心にこれは願ってはいけない事なのだな、と思ったことを思い出した。

 

彼の義姉への恋慕は既に昇華されている、とは言い切れないのが現状だ。

実際今でも求めている。

暖かい手、体、言葉―――心。

しかし目の前の男ほどには求めてはいない。

 

言うなれば裏と表、白と黒。

義姉への想いが精神の安定を求める慕情だとすれば、笹嶋への思いは肉体を伴う愛。

いや、愛とさえよべない、凶暴な何かだろう。

殺したいとさえ思っている、そんな思いを只一文字の安っぽい言葉で括ってしまって良いはずがない。この思いを前に、口で出す音など何の意味ももたない。

 

「笹嶋さん」

 

極論で言えば名前すらも只の記号でしかない。

たった二・三文字で、自分の、あなたの辿ってきた道筋を表せるはずがない。

だが自分達はそれを呼び合う事でしか区別できない。それを越えたところに、自分の求めるものはあるというのに。

 

それが酷く歯がゆくてならない。

 

 

なんだい、と優しげな声音が部屋に木霊する。

部屋の中に漂う細巻の匂いに酔った様になって、吸い込まれるように手を伸ばす。只一言、しましょう、と呟いて生々しく跡が残る肌にまた新たな傷を作る。

「――老人を余り苛めてくれるな」

苦笑と狼狽と少しばかりの期待が含まれたそれを、右から左へ聞き流す。ああ、やはり言葉は何の役にも立たない。

 

言葉も立場も性別も、何もかも超えたところに真理はある。

笹嶋と新城を乗せた船が何処に向かっているのかも、<皇国>という化け物ばかりが棲む国の行く末も。

しかし残念ながらそれは此岸の者の目には見えない。生ある者が出来ることと言えば選択する事位か。しかしそれもまた目には見えない。

 

そして捨てた選択肢が戻ることはもうない。

 

 

 

押さえた声で、眼下の男が喘ぐ。先程の逐精のおかげかもう十分に潤っているそこに、滾る思いをねじ込んでいく。

最初の頃よりか、痛がらなくなった。最初の頃は情交というよか、拷問に近かっただろう。

緩急をつけて腰を打ち付けると、それに合わせて断続的に呻きがあがる。尻の肉が当たる音とそこから響く淫靡な音に、新城の脳髄は犯されていく。

 

さわさわと隙間から囁く笹の音にあわせるように、翻る笹嶋の体。

 

不意に短冊に願いを書けなかった自分を思い出した。

文机の前に無表情に座る子供。

目の前には短冊が途方にくれたように横たわっている。すずりは当に乾いていた。

 

自分より一回り以上に大きい男の身体を器用にひっくり返し、今度はじっくりと顔を眺めながら犯す。快感よりも羞恥の方が大きいのか、先程よりも抑えられた喘ぎの箍(たが)を外そうと、限界まで抜いてから突き入れる。顔を隠すように交差される腕を力づくで外し、頭の横に縫いとめた。

「―――っは、あ、あ、あ」

がくがくと揺さぶられる体。屹立した前からは引っ切り無しに蜜が零れ落ちている。男の体の構造上無理な体勢に、途切れ途切れになる息。それすらも奪おうと、自分は虫の息の男に口付ける。

 

そう、言葉は無意味だ。

だからこそ、自分はこの男の体の奥深く――精神の中まで入り込み、犯す。綴るのは文字ではない。ただただ灼熱の熱さ、鋼鉄の冷たさをもって、体の中に刻み込む。

 

短冊は笹嶋自身。それに自分は筆も言葉も使わずに、想いを刻み続ける。

凶暴で、短絡的で、即物的で、悲しく、怒りに満ちた自分を書いてゆく。

 

誰でも良いわけがない。新城にとって短冊は、笹島でなければならない。

 

ひくり、と笹嶋の喉が空気を求めて痙攣する。

随分長い間口づけているのだろう。しかし、それでも笹嶋は新城の身体を押しのけようとはしない。首を締め付ける代わりにしていたそれを離せば、咳き込む勢いに混じって甘い息が吐かれた。

「―――っが!、あ、がはっ、ぐぇっ・・・ぇあっ、んっ、ふ、っう、げっ」

腹筋が収縮しているのか、断続的に絞まる後孔に新城は快感も手伝ってか笑みを零す。

 

恐らくこの想いをあらわす文字はこの世界全てを探しても無いだろう。

そして生あるうちに真理にたどり着く事が無いのも、すでに新城は知ってしまっている。

だからこそ、願を掛け続けるのだ。

                        ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

この名前の無いモノよ、どうか決して叶ってくれるなと。

 

文字がついた時点で、気持ちは無に還る。

只の文字に意味は無い。人が作り出したものは、いずれ風化してしまう。

 

笹嶋は気付いているのだろうか、己の中に逐精された新城の願いに。

付けられた傷の一つ一つに刻まれた文字の無い想いに。

 

おそらくそれに気付く事はないな。と新城は想う。よしんば気付いたとしても、それは彼岸に逝く時だろう。

そして新城はそれを伝える事はない。こうすることでしか、伝える事が出来ないのだ。

 

その時の彼の「つくづく君は七面倒くさい男だね」と苦笑する彼の顔が浮かんで、彼はまだ見えぬ彼岸に思いを馳せる。

 

人間が苦難の末たどり着く真理など、所詮末端でしかない。

人間が人間としての機能を止めても、それは終わりではない。その先にも道はある。長く長い、果てしない道が。

それを進むために、人は願いをかける。

だからこそ進む事が出来る。

 

 

その願いが叶ったら、それが確かな質量をもってしまったら、人は絶望するしかない。

 

 

 

 

世界の涯(は)てまで往きたいと言った男が居た。

「この世界はどうなっているのだろう」、と

それを聞いた女は言った。

「じゃあ一歩下がって周りを見渡して御覧なさい。それが世界の涯てなのよ」と。

 

 

 

 

気絶してそのまま眠りに落ちた笹嶋の身体を撫でながら、新城は想う。

保胤へかたくなに金を渡したがったのは、その好意が質量を帯びていたせいだ。自分はそれを断ち切りたかった。目に見える想いなど、言葉と同じで意味がない。

だから同じ質量で手を切った。同じ大きさの意味の無いもので。

 

笹嶋の身体に刻まれた傷をいとおしげに撫でる。

これは僕自身の願いだ。文字の無い、質量の無い、実体の無い、願いそのもの。

新城はこの願いが叶わない事を心から祈って、ゆっくりと瞼を閉じる。心地よい闇が、意識を攫っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恐らくこれが質量を持った時、自分は笹嶋を殺すのだろう。