願いよ、どうか 。
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想いをすいてペラい紙
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7月7日。
イベント事が好きな国民性のせいか、社内も社外も妙に浮き足立った雰囲気に包まれる。 全体的に見れば別に何のことはない只の一日に過ぎない。 朝になり、昼が来て、夜が訪れる。 そのいつも通りのストロークが変調したのはいつの頃からか。
別に織姫と彦星が会う日だから、などと乙女チックな事を思っている訳ではない。 そんな事でどぎまぎする世代はとうに越してしまったし、第一似合わない。
一緒に呑む口実が出来る。 星の河ではなく、冷たく深い社会の河をわたる自分達には、それだけでいい。
定時10分前。 社内の空気はいよいよ最高潮に達する。 あるものは1分毎に時計を見、あるものは携帯を見、あるものは物憂げにため息をつく。
そのどれにも含まれない自分は、只黙々と仕事をする。 しかしその内心は、どうにも押さえきれない想いがある。
只の上司と部下、なにかあろう筈もない。 酒を飲んで、話して、笑う。 そのいつも通りのストロークが変調するまで、あと7分。 期待はすまい。しかし、したい。雨は降っていない。これなら渡れる筈だ。 上司と部下という、冷たい河に橋が架かるまで待っていられない。 突如走り出したい気持ちに駆られて、自分もまだまだ若いなと再認識。
この一日が特別な意味を持つまであと6分。 最後の文字を打ち終わり、文書を保存する。既に帰り支度を始めている部下を見て、ため息と共に苦笑い。そしてパソコンの電源を落とす。
あと5分。色がだんだん変わり始める。 街のネオンが妙に明るく感じて、目を細める。判を貰い忘れたと部下が持ってきた書類を躊躇いなく明日に回す。いつもならば信じられない事だ。
色々な色に煌くネオンは、きっと短冊の色。 みなそれに乗せて思い思いの願いを空に放る。
あと4分 3
2
1
さて、貴方の願いは何でしょうね?
7月7日。 みな思い思いの短冊に願いを託し、空に放す日。しかしその殆どが誰にも知られる事なく星の河に消えていく。だからこそ流れないように、笹にかけるのかもしれない。 ・ ・ ・ ・ しかし僕は笹にはかけない。
いつだってそうだ。 小さい頃に書いた短冊も、笹にかけずに小川に流してしまった。
叶えば尚苦しくなる。今だって窒息しそうなくらい苦しいのに。 だからこそ思いを閉じ込める。貴方の隣に座って笑いながら願うのは、七夕でなくても一つだけ。
でもそれは、貴方の幸せなんかじゃ、ないんですよ。
***
「はい、先輩」 後輩の西田から目の前に突如出された小さな紙。「ん」と短く返事をし、それに条件反射的に判を押そうとして手が止まった。 「・・・なんだこれは」 判をもった手は宙ぶらりんのまま、目だけで西田を見上げた。 折り紙を半分に切って先にはゴムが付けてあるその代物を、新城は訝しげに見る。 「何って・・・短冊ですよ。今日は七夕でしょう」 至極当然のように言われた言葉に、しばし理解に苦しむ。七夕?だからなんだ。 「社内文書で通達がありましたよ・・・っていっても、来たのは今しがたでしたけど」 はい、と続けて出された文書に目を通して、堪えきれずため息をついた。 「・・・皇国産業は安泰だな、おい」 それは地域で行われる七夕祭りに、短冊を提出(供出か?)するという旨が書かれていた。なんでも、地域に密着した企業作りの一環らしい。 「なんとかして地域に親しみを持たれようとする会社の涙ぐましい努力が伺えるね」 「・・・まぁまぁそう言わずに。実際地域にそっぽ向かれたら、俺たちの会社も立ち行かなくなるわけですし。これも会社の為ッスよ」 彼と手分けして短冊を配っていた兵藤が、冗談めかしてそう言った。 「帝国倒産・・・とでも書くか」 オフィスに苦笑が広がったが、新城は至極真面目にそう言った。実際そうなれば自分が交渉の矢面に立つなどという面倒はなくなる。 会社も立ち直り、ハッピーエンドだ。 本気でそう書こうと思った矢先、書類を持って西田の後ろに立っていた漆原に、その短冊を取り上げられる。 「駄目ですよ!七夕の短冊は、そういう呪いのアイテムじゃないんですから」 将来の事とか、何かになりたいとか、そういうことを書くもんです。と続けられた言葉に新城は小さくため息をついた。
では、行く末などおおかた決まってしまっていて、なりたくないものになってしまった大人は何を書けばいいんだ? 今更大統領になれるわけでもない。 こんななんでもない自分がたどる道筋など、変える努力をした所で着地点などさして変わらないのだ。
(願ったところで) 新城は一人自嘲する。
(到底幸せになどなれないだろうしな)
「・・・では、漆原。お前が僕に代わり願いを書け。願う権利を譲ってやる」 すっかり興味をなくして(元々なかったのだが)、書類を手に取り目を通し始める新城に、漆原と西田は少しだけ顔を見合わせた。 「課長はホントーにないんですか?誰かと結婚したいとか」 結婚、という単語に心底ウンザリする。 新城は不快感を隠すこともなく、二人の間に割り入るようにして居る兵藤をじろりとねめつけた。 「縁談なら間に合っている・・・というか兵藤、お前の書類間違いだらけで話にならんぞ」 西田と漆原の間に割り込むようにして居る彼の話をこれ以上続けさせないように、修正だらけの紙の束を突き出す。やぶ蛇だったかと兵藤がすごすごとデスクに帰るのを苦笑してみつめてから、西田はとりなすように言った。
「まぁまぁ。とにかく、何でも良いので書いてくださいね。課長や部長クラスは一番見える所に飾るらしいですから」
西田と共に踵を返しかけた漆原は「あ、勿論『帝国倒産』以外で」と付け足す事も忘れなかった。
***
七夕の夜の空気は、朝の空気とは別人のような雰囲気をまとう。 勿論その流れにたゆたう人もまた例外ではない。 みなその日だけはきらきらとした星をまとっているようだ。
特別な日。 特別な空気。
その河の流れに飲まれないように、彦星は懸命に向かう。 その人ごみにもまれながら、新城は殊更ゆっくりと向かう。 織姫が待つ対岸へ。 あの人が待つ店へ。 心もとうに走り出している。しかしこれ以上足を早めれば流されてしまう。 心はとうに走り出している。しかし歩を早めないのは、彼なりの心の準備だ。 期待している。一年ぶりだ。 やはり期待はすまい。一ヶ月ぶりだが。 上気する頬を隠そうともせずに扉を開ける。 なるたけ平静を装って扉を開ける。
――心臓は飛び出そうなくらい、高鳴っている――
***
蓮乃の店には彼ら以外誰も居ない。 連日鬼のように忙しく、まともに顔も出せなかった義弟の労をねぎらって、蓮乃が貸切にしてくれたのだ。店に着く早々、笹嶋さんを誘っておいて遅れるなんて、と小言をもらったが、当の笹嶋は優しく微笑んで、「先に呑(や)っていたよ」と言っただけだった。 「・・・それで結局短冊にはなんて書いたんだい?」 たこわさともろきゅうとほっけに、冷酒が並ぶカウンターに二人で並んで杯を傾けながら、先程のオフィスでの経緯を話していた。 「――大したことは書いていませんよ。ただ「家内安全」とだけ」 「・・・何だい、そのお寺のお札みたいな願いは」 半ば呆れてそう言った彼に、新城は意地の悪い笑みを浮かべた。 「僕が具体的に願いを書いたら、呪いで会社が傾きかねませんから」 あえてそう書くことで明言を避けたんですよ、と続けた義弟に義姉は品の良い眉をつりあげた。 「また直ちゃんはそうやって・・・天邪鬼なところは幾つになっても変わらないわね。幼稚園のときもそうだったわ。せっかく書いた短冊を川に流してしまって・・・」 「義姉さん」 恥しいエピソードを語られそうになって、新城は咎めるように蓮乃をみやった。 「なんでまた・・・恥しかったのかい?」 興味をそそられたのか、首をつっ込む笹嶋に新城は額を手で押さえる。 「・・・それがね、何度聞いても首を振って答えないんです。そうなったら直ちゃんはてこでも言いませんわ。新しいのをやっても、書くどころか見ようともしないんですよ。結局、義父様が代筆で書いて、無理矢理持たせたんですけど」 ふふふと口元を押さえて笑う蓮乃をじろりとねめつけて、新城はやけくそ気味に酒を呷った。せっかくの酒なのに、不味い事この上ない。 「まぁ会社の短冊も川に流さなかっただけいいのかもしれないわね」 「義姉さん。いい加減にしないと怒りますよ。――それと、お銚子2本追加してください」 これ以上義姉に余計な事を喋られては困ると、早々に義姉を奥に追っ払う事にする。それに蓮乃は「はいはい」と宥めるように言うと、店の奥へと素直に引っ込んでいった。
「・・・昔から面白い子供だったんだね」 笑いをかみ殺しながら、笹嶋はそう言った。 「変な子供だったんですよ。今と変わらず」 半ば諦めたようにそう言って肩を落とす新城に、笹嶋は快活に笑って言った。 「なに、大人には大人にしか解らない事情があるように、子供にも子供にしか解らない理屈があるのさ。――影を踏みながら家まで帰れたら良いことがある・・・みたいなね」 むしろ、と笹嶋は続けて言った。 「そんな時代があって安心したよ。君はなんだか昔から大人だったような印象を受けたからね」
大人だったんですよ。と心の中で新城は答える。 この世の辛苦を一身に受けて生まれてきたような顔、と悪辣に揶揄されたことがあったが、むしろ新城はその評価を真摯に受け止めている。 子供の時代から恵まれた環境には育っていない(顔は少なからず環境を表すものだ)。 それは孤児院で、彼女と猫と一緒に今の屋敷(いえ)に引き取られてきてからも変わる事はなかった。
やがてそれは婚姻による義姉という存在の喪失によって、より顕著になる。 精神的にまだ幼い自分が、自身を守る為に出来るたった一つのことといえば。
「まぁ、大人のふりをする事で、守ってこれたものも確かにありますがね」
大人の為に子供の「ふり」をするという事も大人びていると言うことなのだろう。
店の奥から枝豆をゆでる良いにおいがする。 丁度肴もなくなってきた頃で、やはり義姉はエスパーだ。と思う。 しかし彼女は、一番気付いて欲しいときに気付いてくれない。そして目の前の彼もまた。 新城は酒を呷る振りをして、そっと彼を盗み見た。
草臥れた風体の、どこにでも居るような男だ。 蓮乃とは似ても似つかない。しかし、どこか内面的に酷く似通っている。
居ると安心する。 心が温かくなる。
しかし、それでは済まなくなる。 もし、一番の願いが叶ってしまえば、心の中の貪欲な獣が目覚めて全てを欲するようになる。
そしてもろとも壊してしまう。
だから橋の上から放ったのだ。 叶わないように、壊さないように。
一番叶えて欲しい願いを、橋の上から。
「 」
何か叫んだのかもしれなかった。しかしその時の記憶は残念ながら僕にはない。 覚えているのは、キラキラと光る水面に吸い込まれる水色の紙。 想いを乗せた紙は、ひらひらと宙を舞い、 そして水面に音もなく浮くと、そのまま流れていって、やがて見えなくなった。
願いよ、どうか叶うな。 それが僕の二番目の願い。
・ ・ 「―――直衛君」
不意に名前を呼ばれて、弾かれたように彼を振り返った。とたんに彼の悪戯めいた視線とかち合って体温が上がった。 「・・・・・・・・・なんですか」 いたたまれずに視線をそらして言う。頬が熱い。きっと赤くなっているに違いない。それを見られるのが悔しくてあさっての方を向いた。 「・・・いや、何か上の空だったようなのでね。驚かしてやろうと思ったんだが、思わぬ大成功だったなぁ」 珍しいものを見れたと喜ぶ笹嶋を横目に新城は心のそこからため息をつく。
やはり期待などするべきではないな。 ムードもなにもあったものではない。
しかし、自分達にはこれで丁度良い。 会社から解き放たれた僅かな時間をぬって、僕らは上司と部下という河を渡って互いの岸へとたどり着く。 お互いの姿は見えないが、きっとそこは特別な場所。 特別な時間。 それで――丁度いい。 ・ ・ 「――お銚子空でしょう、定信さん」
名前で呼んだお返しとばかりに、意地悪く新城がそう言った。とたんに笹嶋の目が丸くなる。 「義姉さん、お銚子をもう一本。――定信さんに」 「・・・わかったわかった、まいったよ、――直衛君」 降参と言った体で両手を挙げた笹嶋がにやりと笑って、そう言った。
願いなど叶わなくてもいい。 お互いの岸がなくなってしまわないように。
だから今度も、一番の願いは橋の下の小川へ放ろう。
「なぁに?どうしたんですか、にやにやして」 銚子3本とゆでたての枝豆をもった蓮乃が、笑いあう二人を見てそう言った。 「なんでもないですよ義姉さん」 「蓮乃さんも如何ですか、一杯」 なんだか気味が悪い、と言う蓮乃の顔も笑っている。
ゆでたての枝豆の香りに包まれながら、七夕の夜はゆっくりと更けてゆく。 さて、と新城は天井を見上げ、その更に上にあるであろう星の海に思いを馳せる。
彦星と織姫は、無事逢えただろうか?
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