あなたはこの先、僕をずっと胸に抱いてくれるだろうか。

カドモスが蛇に変化する際にずっと抱きしめていてくれたハルモニアのように。

 

やがて自身が、蛇になってしまうとしても。

 

 

 

指先触れ合うハルモニア

 

 

 

恋。

 

そう、これは恋。

 

新城直衛は、会議用資料の裏にボールペンでグルグルと円を書きながら突然そう思い当たった。

塗り潰される白、磨り減る軸先と自分の気持ち。

穢してみたいのか?と自問する。しかし答えは既に明白な訳で。

 

ホワイトボードの前に立つ彼が指し示す指の先には数字。日に日に減ってゆくそれと同じ様な自分の自制心。

隙あらば、ときっかけを狙う自身に気づく回数と比例して増える自嘲。

 

本当にどうか、している。

 

妻帯者、子持ち、男、上司。どれをとっても恋愛感情が滑り込む隙間など無い。

今のままで十分に幸せな彼の隣には自分のための場所などあるはずが無かった。

ならばせめて、「良い」部下として彼の記憶に留まりたい。

しかし彼が幸せならば、笑っていればいいなどと云う聞き分けのいい部下の振りは日に日に下手になっていた。

膨れ上がる欲望と征服欲。

 

性質の悪い熱に浮かされて、寝付けない夜が続いている。

 

 

***

 

「そりゃあお前、恋だろう」

図書館のような旧友の部屋を思い余って尋ね、包み隠さず告白した後、それまで黙って話を聞いていた友はそう事も無げに言った。

その端に彼が心配したような嫌悪や嘲りは無い。

貴重な友人だ。と新城は知り合ってから初めてそう思った。まったく得難い理解者だ。

「しかし、お前もいちいち大変な奴だな。社内の揉め事がようやく収まったと思ったら、今度は別の揉め事か」

そう言って友は、話を聞き始めてから一度も口をつけていなかった酒を一気に呷った。新城も手をつけないまま置かれている酒に眼をやったきり、口をつぐんでしまっていた。

「僕は、変か」

暫く経ってそう出し抜けに言った新城に、友は眉を吊り上げて「変だ」と切り捨てた。

「何せ相手は男だろう?しかも自分の親ほどに歳の離れたオヤジだ。妻帯者で、子供も居る。そいつをお前は好きだ、と・・・もっと直接的に言えば「抱きたい」と言っているんだぜ?・・・どう好意的に考えても、まともじゃあないね」

予想していた反応のためか、腹は立たなかった。

「大体どこに惹かれたんだ?・・・なんていう質問は野暮だな」

友は苦笑していった。

「簡単に答えられるんだったら俺のところなんかには来ない筈だし・・・解らないんだろ?」

「・・・・・・ああ」

新城はやっとそれだけ言って、窓の外を見た。

灯が灯り始めたビル群が、闇に染まりきらない空をぼんやりと照らしている。

「段階が必要、というのは僕にも解る。かと言って段階を踏もうにも、どう踏んだらいいのか解らない。・・・というよか、段階をすっ飛ばしそうで・・・その、恐い」

ぎゃははは、という下品な笑いが、部屋に響いた。

「恐い!恐い!?・・・おいおいおい、新城直衛君。君は今年で幾つだ?帝国興産に喧嘩を売ったときの冷徹ぶりは何処へ落っことしたんだ?」

なかなか笑い止まない友人に、新城は眉を顰める。

「・・・恐いものは恐い。僕だって人間だ。僕が誰よりも恐がりなのは、お前も知っている事だろうが」

「顔に出ないだけでな」

やっと笑いをおさめて、友は目の端に浮かんだ涙を拭った。

「・・・しかし、なんというか――、お前は本当に大変な道を選んじまったな」

「軽蔑するか?」

新城は少し苦笑して目の前に置かれていたグラスを手に取った。

手は微かに震えている。

「『まとも』じゃない僕を、軽蔑するか?」

すると目の前の友は、暫くきょとんとしたまま新城の顔を眺めて、ふっと破顔する。

「お前が俺とであってから、一日だってお前が『まとも』だった事があったか?ガキの時、グラウンドで小学校の6年とケンカしたときから、俺の中のお前はかわっちゃいねぇよ。いつだって『まとも』じゃないお前が、お前なのさ」

 

ふっと背中が軽くなったような気がして、新城の口元は知らずに緩んだ。

グラスで口元が隠れていた為に、それは友に知られずに済んだのだが。

 

この社会の中で変わらない、ということがどれだけ大変な事か、短い中でも十分に思い知った。庇護される立場から庇護する立場へ。それは絶えず降り注ぐ矢の中へ身一つで放りだされることと同じだ。

会社という頼りない子供を守る為に、数え切れないものを捨ててきた。

自分の道理を押しやって、会社の歯車のひとつに組み込まれ、いつの間にかそれに疑念を抱かなくなっていた自分に気づきもせずに、せせこましい社会の中で風評に怯えながら生きている気に「なっていた」。

 

きっかけは、彼。

彼のホワイトボードの上を滑る指。あの指に触れてみたいと思った事が、スタートライン。

彼の平穏な日常、そしてこれからの自分の平坦な人生を覆す事の。

 

「・・・なんかとんでもない事考えてないだろうな?」

 

そんな自分の考えを見透かしたかのように、友は訝しげにそう言った。

それに上機嫌に微笑んで、新城は窓の外の彼の事を思った。

 

ぽつぽつと道に街灯が灯りはじめ、頼りなく空を照らしていた光はいつしか昂然と輝き始める。

それに照らし出されるように、新城の目の前にも、いつしかはっきりとした道が見えるようになっていた。

 

曲がりくねった道ではあったが、もうそれに迷う事はないだろう、と新城は思う。照らす明かりが消えてしまう事もあるだろうが、目的地がわかっているのなら、何とかなる。

 

今居る場所が何処だろうと、自分の中であなたへの道は繋がっているし、たとえ道を見失ったとしても、あなたの指先が、また僕を導いてくれるだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

恋。

 

そう、これは恋。

 

新城直衛は、会議用資料の裏にボールペンでグルグルと円を書きながらそうひっそりと思った。

ホワイトボードの前に立つ彼が指し示す指の先には数字。日に日に減ってゆくそれと同じ様な自分の自制心。

 

しかしもう躊躇したりはしない。思いとどまったりはしない。

 

僕はこの先、ずっとあなたを胸に抱き続けているだろう。

自身が蛇に変化し、抱きしめる両腕が無くなってしまっても。

 

 

 

会議の終了を示す彼の言葉が継がれるのを待つ。獲物に飛び掛る肉食獣のように、タイミングを計る。

重役連中が大方出て行って、彼が資料を纏め始めた時。

 

 

「すみません、お話があるのですが」

 

 

号令と共に、スタートラインを切った。