晴れ上がった青い空に、爽やかな風

桜と、

 

・・・そしてあなた。

 

 

 

 

 

小噺A

 

 

 

 

 

季節が過ぎるのは早いもので、皇国にも春がやってきた。

相も変わらず帝国との関係は予断を赦さぬ所ではあるが、厳しかった寒さが終わり、吹く風に暖かさを含んだ爽やかな緑の匂いが含まれる時期になると、皆の足も浮き立つようであった。

明確な季節感をもたぬ人間ですらそうなのだから、感覚が鋭敏な猫(剣牙虎)はひとたまりもないわけで、普段大人しい千早も朝から檻の中を騒々しく動き回っては唸り声を挙げている。

 

いわゆる、恋の季節といったものである。

 

毎年こういった状態になる割には好みが難しいのだが。と、新城は半目になる。その点は人間と同様、誰でも良いというわけではないらしい。

そして千早には困った癖があった。

閉じ込められている鬱憤を晴らすためか、檻の中を時折めちゃくちゃに走りまわるのである。広く仕切られているとはいえ(先の大戦で猫の数が減ったので、空いた檻の仕切りを取っ払っているのである)猫の体躯を考えればそれほど広いともいえない場所で、巨体が走り回ればどうなるか。

 

「これはもう駄目ですね」

壁にあいた穴を見て、世話係がそうため息をついた。

視線の先には人間の握り拳大の穴が開いている。その周りには大きなひび割れが出来ていて、ぽろぽろと崩れた混凝土(コンクリート)のクズがそこらに散らばっていた。

頭突きをしたのか、突進したのか、牙をぶつけたのか。とにかくその全ての可能性が考えられて思わず新城の頭に鈍痛がはしる。

慌てて兵舎に彼が駆け込んできた時は、帝国の襲撃かとひやりとしたが。

(千早の「突撃」だったとは)

 

頼むから突撃するのは敵兵だけにして欲しいものだと、切に願う。

 

その開いた穴に大きな牙を差し入れ、ゴリゴリと噛み砕いてその穴を貫通させようとする千早に、呆れと、半ば尊敬に近い念を抱いた視線を遣ってから、新城は素直に「申し訳ない」と謝った。

「・・・上官(うえ)の方には、僕から言っておく」

たまに思い出したかのように新城に近寄る千早を軽くはたいてから、新城は体ごと向き直った。

「早急に修理しないと、昼ごろには脱走するかもしれない。悪いが、本部の修復班に来てもらえるように手配してもらえないか。修理が終わるまでの間、僕が千早を責任持って見ておく」

「了解しました・・・しかしすごいですね。剣牙虎とはこれほどまでに力が強いものなのですか」

新城が雑務で居ない間、彼女の世話をしてもらっているせいか、この世話係とは比較的友好的に話が出来る間柄だ。

その言葉に諧謔味を帯びた笑みを返してから、新城は言った。

「・・・人間の骨を砕く位だからな・・・物資不足の皇国が作った鉄など、ひとたまりもなかろうよ。かと言って上質な鉄を此処に回すぐらいなら、銃や戦艦(ふね)を作れと上は言うだろうしな」嘆いても仕方が無いが、と新城は続けた。

「物資不足は承知の上での無理ですからね、辛いところなんでしょうが・・・。まぁしがない一兵卒の下らない愚痴として聞いていただくのならば、それで自分達の安全が脅かされてしまったのでは意味がないと常々私は思うのですが」

ため息をついて続ける彼に新城は珍しく笑みを零した。

「面構えは立派でも、本部は物理的に一番脆い建物だからな。実際に此処を直接攻められれば、5分と持たんだろうよ。強度だって、そこらの支部よりかは幾分かましだという位の話らしい」

上官の言葉を借りれば、攻め込まれる前に叩くから良いらしいのだが。

そう言われると、お前らが壁だと言われているようで実に不愉快になる。まぁ実際にその辺の実感は北領で嫌と言うほど味わったわけであったのだが。

ともかく、剣牙虎の一撃でこうなるのだから、これが砲弾であったならばこれ以上の損害を被る事は明白である。

(導術兵にこの有様を伝令(おく)って貰いたい位だ)

恐らく、一蹴されるだけだろうが。

 

と、その時檻の中に鈍い大きな音が響く。弾かれたように目をやると、大きな混凝土の塊が床に落ちていた。千早はそれをふんふんと嗅いで満足そうに喉を唸らせると、再び自身の作業に没頭する。穴は既に子供ぐらいならば通れるほどの大きさになっていた。

「これはいかん・・・では少佐殿。失礼致します」

これ以上穴が大きくなれば、監督官としての責任が問われる事になってしまう。それはいずれ剣虎兵にと思う自分の確実な障害になる。

眼前の惨状と、己の絶望的な未来図に顔を青ざめさせた世話係は、敬礼もそこそこに踵を返す。

「ああ、それと千早と僕の逍遥(しょうよう)許可の方も頼む。修理をするのに千早がそこに居たんでは、仕事にならんだろうしな」

こけつまろびつ、といった体で走り出そうとする彼の背中に、新城は付け足して言った。それに振り返った世話係は「了解しましたっ」とぴしりと敬礼すると、勢いよく駆け出して行った。

 

 

***

 

 

演習場の脇の桜は、それはそれは見事なものであった。

 

惜しむらくは、今の自分にそれをゆっくり見ている暇がない事か。万が一の事を考え、千早に口輪をはめさせ手綱を繋いで歩いてはいるが、元来の圧倒的な力の差でずるずると引き摺られる形になっている。

彼女が首を左右に振れば、吹き飛ばされる勢いで体が傾ぐ。止まればどんなに力を入れようともテコでも動かない。どちらが散歩されているのかわからない状況に、新城はため息とともに額に浮かぶ汗を拭った。

この時間は演習もないから、人と出くわすと言うことは無いだろう。

加えて人の出入りするところよりもっとも遠い所を選んでいる。あまり使われないのか、はたまた管理をさぼっているのか、端に青々と茂る草の匂いが、風に乗って鼻腔をくすぐった。

久しぶりにほのぼのとした気分を満喫していると、再び体が傾ぐ。

(こんな所は、部下には見せられないな)

士気が下がる以前に、自分の人間としての株が下がりそうだ。と心の中で呟いてから、苦笑を浮かべた。

 

と、先程まで盛んにあたりを嗅ぎまわっていた千早が微動だにしない事に気が付いた。視線は一点を見つめている。

ぎくりと身体を強張らせて、その視線の先を追う。敵か。いや、こんな所に攻め込んでくるはずが無い。もしくは自分を快く思わない人物か。そのあたりは心あたりが多すぎてすぐには名前が浮かんでこない。

 

暑くもないのに、汗がこめかみを伝った。

 

 

視線の中央の一番大きな桜の木の幹の後方が不意にもぞりと動いて人影が現れる、飛び掛るか、と尋ねるように首を新城の方に向けた千早を手で制してから、此方に近づくそれをじっと見つめた。

木漏れ日のなか、ゆっくりとした足取りで近づくその正体が次第に明らかになるにつれ、新城の表情から険しさが抜けていく。それを気配で感じ取ったのか、千早も体から力を抜き、先程の緊張をほぐすように身体を震わせた。

 

「やぁ、新城君」

 

足取りに負けぬくらいのんびりとした口調で、それは言った。

「猫と散歩かい?」

「――――笹嶋さん」

周りに誰も居ないと、新城の笹嶋に対する口調は自然とくだけたものになる。それは笹嶋も同様で、お互い面倒事は嫌いという共通観念からくるものだ。だから笹嶋はその事を咎める気持ちは無かったし、新城もまた、必要以上に堅苦しい言葉遣いをする事もなかった。

「・・・一体どうしたんです。こんな所で」

呆れた風に言った新城に、笹嶋はやわらかく微笑んだ。

「桜が見事なところがあると風の噂に聞いたのでね。陸軍(ここ)に来たついでに寄ってみたんだよ」

「越権行為ですよ・・・演習場は許可が無ければ立ち入れない場所のはずですが」

一応苦言を呈してはいるものの、新城の顔は笑っている。常の彼であれば、考えられない程の澄んだ笑顔であった。

なるほどこんな笑顔もできるのか、と笹嶋がひそかに感心していると、その笑顔がたちまち彼特有の、裏のある笑みにすり替わった。

「しかし・・・会議をサボって花見とは風流ですね」

それにはは、と笑って、笹嶋は両手を上げた。

「進展と面白みの無い会議は趣味ではなくてね――と言いたい所だがね。・・・ちゃんと出席したよ。今はその帰りだ」

会議の結果は、言わずもがなといった所だろうか。笹嶋の表情が言葉以上にその事をあらわしていた。

「実際戦艦を動かした事のないお偉方のお考えは、一参謀には計り知れない所があるよ。いやはや、君が言ったとおり、陸軍は色々と面倒だらけだな」

戦術がどうの、熱水機関がどうのと言っている割には、それを成すための資金の支出は渋る。結局やりたい事は水軍の強化なのか縮小なのか、まったく埒があかない話し合いだった、と笹嶋はため息をついて言った。

「戦術を変えるとなれば、装備もそれなりにきちんとしておかなくてはならない。水軍だけで賄える事ならいいんだが、全艦配備となればそこそこ資金もかかる。装備は充実、しかし支出は最小限に、など無理を通り越してただの無茶だ」陸軍の将校である君に言う事でもないがね、と笹嶋は笑って付け足した。それに新城は千早の頭を撫でながら言う。

「まぁ、僕は陸軍であると同時に水軍にも在籍していますから・・・誰かが引かなくてはならないのが、貧乏くじですよ。それをたまたま貴方が引いてしまったと言うことです。階級が高い故の徴税と思えば、悪くない取引ですね」

「それ故に、確率は格段に上がるがね・・・」

ため息をつく笹嶋に反応するように、千早がうあぉ、と唸った。目線はひらひらとはためく彼の官服の裾に釘付けになっている。人間の太もも以上もある前足で捕まえようとする彼女に引き摺られて、慌てて新城は後ろに体重をかけた。

「千早!・・・すみません、笹嶋さん」

「・・・いや、大丈夫だよ、少し吃驚したがね」

やはり怖いのだろう、引きつっている彼の顔を見て新城は千早に大人しくしていろ、と伏せを命じた。

しぶしぶと言った感じで従う彼女に微笑んでから、ふと湧いた疑問に笹嶋は新城を見た。

「・・・しかし君はここで何を?まさか花見というわけではあるまい」

「当たらずしも遠からず、といったところですよ」

当然の疑問に、新城は苦笑をもって答える。

「千早が檻を壊しまして。修理する間僕はこれのお守です・・・千早が居るところで修理は出来ませんから」

剣牙虎は殺意や恐怖に鋭敏に反応する。それは訓練されているというよか、本能に近いものだ。人間の深い所で本能と繋がっている恐怖という感情は容易く伝染する。周りの人間にも、剣牙虎にも。

その結果がどういったものになるかは、火を見るよりも明らかだ。

いくら訓練で人を襲わないように飼育されているとはいえ、本能までも操作できようはずが無い。

笹嶋ならば襲われる心配は無いだろうが、と新城は思った。

「しいて言うならば、千早の鬱憤晴らしもかねての花見、といった所でしょうか。・・・いいご身分なのは変わりがありませんが、千早は色々と気難しい部分もあるので、他人に任せるのは少々不安なのです」

「確かに、そんな巨躯でじゃれ付かれでもしたらひとたまりもないだろうな」

女性に巨躯は失礼だったかな、と笹嶋が視線を遣ったが、彼女はフンと鼻を鳴らしただけであった。

 

 

はらり、と花弁が散る。

 

「・・・私も、常々こうありたいと思うのだ」

その様をしばし無言で見つめていた後、笹嶋はおもむろに口を開いた。

彼の意図がなんとなく理解できた新城が、口の端に皮肉な笑みを浮かべる。しかし、何も言わずに、次の句が継がれるのを待った。

「咲くときは咲き、散る時は潔く散る。そんな人生を歩みたいと思ってはいるのだが・・・いや、なかなかどうしてこの年になってもそれとは程遠い――職業柄だろうがね」

「・・・参謀が足掻くのを諦めたら本末転倒です。上に立つ人間の仕事の内ですよ――でも、まぁ」と、新城はそこで一呼吸おく。「・・・僕もこの季節になるとそう思う時もありますが」

「君が?意外だね」

ふふふと笑って、諧謔を含ませた視線を笹嶋は新城にやった。

「そんな感傷に浸る暇があったらもっとましな作戦を寄越せと、叱咤されるものばかりと思っていたよ」

「それは僕も御同様という事で。痛み分けですね」

そこで新城は目を半目にして言った。「・・・実際僕の周りには本当に面倒が多いので。いっそ潔く散って仕舞った方がと、そう思う時もあるのです」

笹嶋は同様だと言わんばかりに上を向くと、ポツリと言った。

「だがそれは赦されん、と」

「――ええ。まったく、因果と責任ばかりが付いて回る損な役回りです」

手を頭の後ろにやって、ため息をつく。

「でも、それは貧乏くじというやつでしょう。誰かが引かなくてはならなかった。――そしてそれを引いたのが、たまたま僕であったというだけの話で」

「君でなければ、こうはならなかったろう。少なくとも、君と二人で桜を見られるなどという事は無かった筈だ」

新城はその言葉を受けて、にやりと嗤ってみせる。

「・・・貧乏くじを引かせた張本人が言う言葉でもないですがね」

それは言うなよ、と笹嶋が苦笑して言う。それに笑って、新城はついと顔を桜に向けた。

青空に向かって真っ直ぐに伸びる桜はやはり美しい。

 

「でも、それが無ければあなたと逢う事もなかった。そう考えると、あながち貧乏くじも悪いものだけではないのだなと、そう思います」

思わず本音がするりと這い出て、その言葉の意味にはっとした新城はかすかに赤面した。何を言っている。それに笹嶋は笑うことなく、「そうだな」と短く同意してから、顔を此方に向けた。

「君は不思議で不可解な男だが、私も逢えてよかったと思うよ」

「・・・・・・。せめて不思議だけにしておいて下さい」

 

少しだけ肩を落として告げられた言葉に、笹嶋は今度こそ、快活に笑った。

 

恐らく、この「新城直衛」を見られるのは私だけなのだろう。

有能で辣腕である代わりに、容赦のない男。切り捨てるべきところは切り捨て、使えるものは摩滅するまで使う。

しかし今のこの目の前の男は、その風評とは全く違う面を見せている。だからこそ、信頼できると言えるのだろう。

一面だけの人間なんて存在しない。人間はそんなに平面なものではないのだ。

 

残忍な彼、目の前で困ったように頭を掻く彼。その両方を含めるからこそ、本人の周り以上に面倒なこの男の事を好ましく思うのかもしれない。

 

桜も散り、じきに青葉が茂るだろう。秋には紅葉し、やがて落葉する。

しかしそれを含めて全て桜なのだ。どれも好ましく、どの姿もまた美しい。

散らない花もない。落ちない葉はなく、枯れない木も無い。

だが、いずれ土に還るのだとしても、その残したものは無にはならない。

 

だからその時まで、精一杯咲かせ、精一杯散ろうと思う。

 

この桜のように、今の私が――彼が思ったこと、成し遂げた事を次に伝える為に。

 

 

春の陽気にあてられたのか、千早が大きく伸びをする。

そして桜の木を見上げたまま微動だにしない二人を見ると、何をやっているんだ人間のくせに、と言った風な体で「なぉ」と鳴いた。

 

 

 

ある晴れた春の日の、噺。

 

 

 逍遥【しょうよう】ー散歩、散策。