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褥中の鬼神 後日談@
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次の日は大変顔が合わせづらかった。 あんな事をしてしまった手前いつも通りという訳にはいかない事は分かっていたが、布団に残る生々しい行為の跡を見てしまうと、彼の中の罪悪感がずしりと重く圧し掛かった。 なんという事をしてしまったのか、という気持ちと共に一片の満足感がある。 この男を自分の物にした。 水軍中佐、2児の父、夫という化けの皮を剥ぎ、素の彼を完膚なきまでに征服することが出来た。 やっと、『笹嶋定信』を殺す事が出来た。 しかし、同時に敗北感もある。もちろん、自己嫌悪も。 結局自分は笹嶋に赦してもらったのではないか、という疑念。そしてなによりも「致してしまった」という良心の咎めのようなものが、彼から余裕を奪っていた。 とうに目が覚めていた新城は、目覚めの睦言を囁く暇もなく、浴衣と手ぬぐいを引っつかんで逃げるように浴場へと向かう。 じっとしてなどいられなかった。
目覚めた後に優しく微笑むぐらいの気概があってもよさそうなものだが、と新城は歩きながら自嘲する。自分にせめてあの保胤の10分の1の甲斐性があったら。やはり、小胆だ。
彼がそのつもりで自分を誘ってくれたわけではないという事は分かっていた、だから尚更腹が立ったのだろう。 もとは彼の誘いを断るつもりだった。 最後までまともでいられる自信がなかったからだ。もちろん、いられなかった訳だが。 行く事になってしまったのは、彼の義兄のせいだ。どうやら自分が出かけている隙に彼から使者が来たらしかった。 女が書いたかのような風体の文に(彼の奥方が代筆したらしい)、義兄は即座に物事を曲解した。 そうか、あいつにもとうとう女ができたか。 彼は文を持ってきた使者に、内容も読まずに「行く」と返事をして帰してしまった。
*** 「義兄上、貴方はどうしていつもそうなのですか」 こめかみを押さえながら、新城はそう言った。 「留守中使者が来たらお断りしてくださいと、そう申し上げた筈ですが」 「いいじゃないか」 新城の義兄、保胤は快活に笑った。 「お前は大体女に対しては奥手すぎる気質がある。誰かが背中を押してやらん限り、踏み出せんのだろうが」 「・・・僕はもう子供ではありません。そういう事は自分で判断します」 相手は女ではありません、とはどうしても言えなかった。 「それに、そういう内容の文でもありませんし」と、新城は出来るだけそっけなく言う。 「それこそ、何故断る必要がある?お前の労苦をいたわるものなら遠慮せずに甘えればいいではないか」
甘えてしまったら、戻れなくなる。
新城は喉まででかかった言葉を呑み込んだ。そうなってしまったら、もう「少佐」と「中佐」ではいられなくなる。全てを欲するようになる。 そうなった先は、火を見るより明らかだ。
壊してしまう。何もかもを。 ――いいじゃないか。壊してしまえ、彼ごと。 お前にはもう、何も残ってなどいないのだから。 凶暴な自分が提言する。 奪ってしまえ。何も残らないほどに。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 忘れたか、『新城直衛』。お前はそうやって生まれた。
(黙れ) 内なる声から耳を遠ざける様に頭を振った新城に、義兄は微笑んだ。 「・・・直衛、なにも難しく考える必要は無い。気が無いのなら無いと、そう申し上げればいいだけの話だ」 あるから、困っているのだ。とも言えなかった。 真実も言えず、嘘も言えぬ。今の新城に出来る事は、ただ困ったような表情で義兄を見ることぐらいであった。 <帝国>との会談でも、こんなに答えに窮したことはなかったのに。いつもは不利なほどに回転する頭が今回ばかりはちっとも働かない事に、彼は歯噛みした。 黙している事を了解と受け取ったのか、義兄は「ともかく」と取り繕った表情で言った。 「お誘いは受けなさい。お前は戦争の技術の他に、色恋の手管も学ばねばならん。なにも娼妓だけが女ではないのだぞ」 女であったなら、こんなに迷いなぞするものか!ああ、いっそのこと彼が女であれば良かったのに!! 新城は戦場以外で初めて頭を抱えたくなった。
あとはもう、野となれ山となれ。 運を天に任すしかない。
新城は取りあえず、笑いをかみ殺している目の前の義兄を恨みがましく睨んだ。 ***
浴場にはまだお湯は張っておりません。露天なら今すぐにでもお入りになられますが、と湯番が申し訳なさそうに言った。 当たり前だ。まだ早朝なのだから。 謝る彼を笑って許し、彼は湯番に自分が出るまで誰も露天には入れない事を言付け、適当に金子を渡す。 まだ幼さの残る彼は「はい」と一言うれしそうに返事をすると、清掃中の札を立てかけてそそくさとそこを後にした。 浴場から露天に出る檜戸を開けると、すっと冷たい風が肌を撫でる。 当然そこに人気はなく、新城はほっと一息ついた。
(・・・そしてその結果がこの様か) 湯に浸かったとたん至った経緯を思い出して、つくづく嫌気がさす。自己嫌悪に露天の中に沈みそうになった。 (お前は莫迦か、そうでなくては阿呆だ)
莫迦だ、莫迦だ。僕は莫迦だ。 やはり断るべきだった。来なけりゃ良かった。方法はいくらでもあった筈なのに。今更御免なさいと頭を下げるつもりか?そんな事ですむなら憲兵はいらんぞ。何と言えばいいのか見当もつかん。ええい、くそ、もういっそのこと開き直ってやろうか。「お前はもう僕のものだ」とでも言えば、少しは気が晴れるかもしれん。
不意に、行為の後に抱きしめられた腕のぬくもりが浮かんで、彼はとうとうずぶずぶと沈んでしまった。
どうして僕は最後まで非情でいられないのだろう。首尾一貫しないのだろう。単に意気地がないのか、ちくしょうめ。ああくそ、腹が立つ。僕がこうやって悶々と悩んでいるのに、彼は平和に眠りこけてるっていうのか。これでは逆だ、まるで逆じゃないか! いっそ徹底的に抵抗されたほうが良かったのかもしれない。嫌われた方が良かった。お前の顔など二度と見たくないと罵られた方がまだ具合がよかった。
そうしたら忘れられたのに。 もっと上手く立ち回れていたのに。
新城は湯船から顔を出すとなんともいえない表情で遠くを見つめた。 悪意に対する報復なら幾らでも思いつくが、見返りを求めない好意の返し方など彼には見当もつかなかった。
自分は酷いことをしたのだ。 信じられないくらい、酷い事を。 それを彼は赦してくれた。普段の彼と寸分違わぬ笑顔で、抱きしめてくれたのだ。
疑念が決定的になって、新城は口を真一文字に結んだ。 やはりそうだ。自分は勝ちはしたが、結局は負けたのだ。決死で起こした彼の行動を、狂気を、笹嶋は抱きしめるという事だけで許容し、篭絡したのだ。
まったく、なんという「たらし」だ。あの男は。 底知れない。計り知れないものが、笹嶋の中にはあるらしい。
(・・・もしかしてこれが色恋の手管を学ぶということなのか?) ふとそう思いつき、三白眼を更に半目にして、彼はため息をつく。とたんに意地の悪い義兄の、満面の笑顔が頭に浮かんで、彼はそれを消しさるように瞑目した。 |