褥中の鬼神 後日談A

 

 

目が覚めると、隣に彼の姿は無かった。

 

すがすがしい朝の光が障子の隙間から漏れて、ちょうど笹嶋の太もも辺りを線を引いたように横切っている。

起き上がろうと体をよじらせた途端激痛が走り、そのまま力尽きたように布団に体を投げ出す。同時に彼の胎の中にあった彼の液体が肌を舐めるように滑り落ち、新たな滲みを作った。

その感覚に、彼は苦笑する。

 

まさか、こんな事を経験する事になろうとは!

 

 

ぎしり、と廊下が軋む音が規則的に響き、誰かが近づいてくる気配があった。

女中か、と一瞬冷や汗が出たが、襖の向こう側から覗き込むように顔を出したのは、彼であった。

浴衣を着ている。朝風呂にでも入ってきたのだろう。なんとも余裕がある事だが、こちらを見ている笹嶋と目があったとたん、居心地悪そうに視線を其方此方へ彷徨わせた。

「どうしたんだね?早く入りなさい」

一向に部屋の中へ入ろうとしない彼を笹嶋は促した。

彼は逡巡した後、するりと隙間から体を滑り込ませるようにして、部屋の中へ入った。

「・・・大丈夫ですか?」

襖を後ろ手で閉めて、彼は昨日と同じ質問をした。」

起き上がろうとした笹嶋を手で制して、足の下に丸めてあった掛け布団をかける。

「大丈夫・・・とは言いがたいな、残念ながら。起き上がれそうにも無い」

「でしょうね」

やはり彼はどこか他人事のように言う。

「酷くしましたから」

呆けたように彼の顔を見上げると、嗜虐も諧謔も含まない瞳とかち合う。囀り合う小鳥達の声が、部屋の中に空虚に響いた。

「・・・どうしてだね?」

というのも今さらだろうが、と笹嶋は続ける。詰問、というよか質問に近い響きであった。

「わかりません」と、彼は即座に答える。

「僕にも理解できません。でも、貴方を見ると血が上って体が熱くなる。いつもは小さく縮こまっている醜いものが膨れ上がって、体の中を暴れだす。それは愛とも恋とも呼べないものです。言うなれば、戦場で感じる敵兵への殺意のような」

口調は変わらなかったが、苦いものを吐き出したような言葉であった。

彼は更に続ける。

「凶暴な何かが、僕を支配する。・・・多分それは恐怖が裏返った感情なのでしょうが。何故それを自分に感じるのかと笹嶋さんが問われるのならば、やはり北領でのことが要因とはいえなくもきっかけではありました」

淡々と、まるで軍記物をそらんじるように言われた言葉に、笹嶋はただ聞き入っていた。ただの言い訳とも感じられなくは無い。自分がそんな事を致してしまったのは、「凶暴な自分」とやらが勝手にやった事だと、そう捉えられるような言い方だ。

しかし、彼は言い訳とかそういった類のものとは無縁だ。彼は嘘はつかない。いつも事実だけを捉える。

 

「僕はあの北領から・・・――あの白銀の地獄から、その感情のみを支えに戦い、帰ってきたのです」

だからその言葉もまた「真実」なのだろう。

 

「私を抱いたのは、殺意からであった。と?」

「・・・一言では括れません。純粋に殺意のみであったならば、貴方は常世には居ないわけですし。何故そこで欲情するのかは未だもって謎です」

「・・・殺意は欲情と同義、と言った学者がいたそうだが」

笹嶋は呆れと苦笑をない交ぜにした複雑な笑みを浮かべた。

「君はそれを地でいっているな。――なんともはや、複雑をとおりこして不可解な男だよ」

理解は出来なかったが、納得する事は出来た。朝を迎えた恋人同士(というのも当てはまらない気がする)が交わす言葉にしては重すぎる内容に、彼はそっと瞼を閉じる。

「昨晩の事は、凶暴な犬に噛まれたという事にしていいのかな?」

即ち忘却。

彼が此方を凝視しているような気配が感じられる。

「・・・それは貴方が決める事だ」

暫く経って、彼はそう言った。

「僕はもう、止まれませんが」

冷たい澱のような沈黙が二人の間に流れた。笹嶋が瞼を開けると、何の感情も灯さない彼が、まるで今日の予定を告げるように言った。

「僕は恐らくこの先も貴方を抱きます。この凶暴な――まったくもって不可解な『新城直衛』という人間が理解できるまで、貴方に抱くこの感情が何なのか解るまで、何度でも貴方を組み敷いて貫きます。貴方が泣いても、喚いても、躊躇はしません。それで貴方が――死ぬような事があっても」

それは凶暴な愛の告白じみた発言だった。

先ほどの、目が合っただけで視線を彷徨わせていた彼の面影は既に無く、獲物の前で舌なめずりをして待っているような、動物的凶悪さがそこにあった。

「なかなか怖い事を言ってくれるね」

笹嶋は気圧されたのを隠すように微笑んで言った。

「『強敵ニハ、アラユル手段ヲ持ッテ対抗スベシ』・・・兵法の基本中の基本、軍属になってから一番初めに教わる事です。形振り構っていられません。なにしろ僕にとって褥は『戦場』ですので」

そこで彼は初めて微笑を浮かべた。裏がある微笑みであった。

「だから笹嶋さんも、どうか覚悟だけはしていて欲しい。僕は不可解で――恐ろしい男です」

 

彼が時折浮かべる少年のような笑み。

血に酔ったような、凄絶な笑み。

 

凶暴に組み敷き、まるで性処理の道具のように自分を抱く彼。

母親から離れまいとする、乳飲み子のような彼。

 

正反対の彼が、同じ体躯の中に存在している。そしてそれは磁石の対極のように反発しあい、時には融合し、彼という人格を成している。

(恐ろしい男に想われてしまったものだ)

 

いつかは喰い殺されてしまうに違いない。

しかし笹嶋の中には恐怖と共にそれを許容している自分もあった。彼に首を絞められたとき、肌に噛み付かれた時、震えるほどの快感が老躯に走り抜けたのだ。

 

なら、彼に命を絶たれた時には、それがいかほどの物になるのだろうか。

 

ふと思いついた自分の考えがあまりに浅ましすぎて、笹嶋は考えを排斥するように瞑目した。

すい、と首筋をなぞる様な感覚があり、彼の顔が耳元近くまで寄ってきたのが彼の体温で解る。

 

「もう、逃がしはしない」

 

 

睦言のように囁かれた言葉に、昨夜の熱が体躯に舞い戻る。

瞳は、開けたくは無かった。

 

 

***

 

さて、そろそろ帰る算段をし始めた頃の事だったが、それはもう、大変な事だった。

なにしろ笹嶋の制服は細切れになっていたし、旅館の布団は筆舌尽くしがたい有様であったからだ。

むろん、笹嶋は歩いて帰れるような状態ではなく、体を傾けるにも四苦八苦している。

「これは緊急に休暇を申請しないといけないかもしれん」

弱り果てた笹嶋は、そう力なく呟く。

「それと、制服ですね」

仕方ない、じゃあ僕が申請してきましょうか、と呟いて立ち上がろうとする彼を笹嶋は慌てて引き止めた。

「たのむ、それだけは止めてくれ。服なら家から持ってくればいい事だろう」

「・・・見ず知らずの男がいきなり訪ねて行って、お宅の旦那様の服を適当に見繕って下さい、などと言って素直に出してくれるとでも?それこそ大騒ぎになりますよ。大体奥方様には何と説明すれば?」

「だ、だったら下男か何かに――」

「下男だろうが、番頭だろうが同じ事です。人の口には戸は立てられない。一日と置かずにうわさが広まります。別に僕は構いませんが」

半目で浮かべられた微笑に、なにか妖気じみたものを感じて笹嶋は絶句する。そして布団のなかで悶絶する。

八方塞だ。

「まぁ、ともかく。僕に任せてください。責任はきちんと取りますから」

だからあなたはそこで心配せずに、大人しく待っていて下さい。

そう不吉に言い残した新城は一人、大勢が気ぜわしく行き交う大通りを、ゆったりと歩いて行った。

 

 

 

程なくして。

彼の手元には新城の手によって新品の制服と、休暇延長の許可証が届けられた。

のろのろと制服を手に取り、ふと制服の見返しの部分に縫われてある名前を見て仰天した。

『新城直衛』

そう朱の糸で縫われていたのだ。

「し・・・んじょう、君。これは・・・」

引きつった声と顔で指差された部分を見て、荷物を纏めていた新城は「ああ」と今気づいたかのように言った。

「僕が笹嶋さんの名前で申請するのもいかにもな気がしたので、尺を変更する、という形で取り寄せました。名前は流石に変えられませんでしたが」

いいですよね?と暗黙のうちに脅迫する彼に、彼は固まったままその名前を凝視する。

 

朱の糸、彼の名。

そこに彼の意図が見えた気がして、笹嶋の背中に冷たいものが伝う。ふと、自分が蜘蛛の巣にかかった蝶のように思えて、身震いした。

 

「・・・何度でも、取り寄せてあげますよ。これからはね」

 

 

昏い笑みと共に言われたその言葉に、笹嶋は本当に往生した。