あヽ につかわしくない てがとどかない とわかつてゐても

それでも わたしは わたしのえだはを のばすのだ

あなたが ひかりのふちより てをさしのべ 

このくかいから わたしをすくいあげてくれる と

 

 

この、昏闇から

 

 

親友を死に追いやり、彼までもを地獄へ落とし込む所だった自分は、やはり穢れた人間なのだろう。

どうしようもない状況だった、というのは本人らにしてみれば只の言い訳に過ぎない。

冷たい海の底で、彼は、彼らは眠っているのだ。

魂の安寧を祈る事など、おこがましい。

嘆き悲しむ資格さえ、すでに自分には無い。ならばせめて、自分も彼と同じところへ逝く事が、私に出来る唯一の事だ。

 

――何を莫迦な事を。

波間にそう聞こえた気がして、俯けていた顔を挙げる。

冴え冴えとした黒い水が何処までも広がっている。気味の悪いほど輪郭のはっきりした月が浮かんでいた。

 

莫迦な事じゃあ、ないんだよ。坪田。

 

心の中で鬼籍に入った親友に話しかける。自分はどうしようもなく卑怯で臆病な人間だ。君の細君にどうやって詫びたら良いのか判らない。泣き崩れる細君に何と言葉をかけたらいいのだ。どう説明しても、どう言い訳をしようとも、坪田、お前を殺したのは私なのだ。それがこの上も無く恐ろしい。

 

(何処まで私は、利己的なんだ)

己に腹が立ち、ぎりぎりと歯噛みした。腹を掻っ切る事が物事の解決になるとは思ってはいないが、今となってはそれしか無い様な気がしてくる。

しかしそれは体のいい「逃げ」だ。

全ての責任を放棄し、転進を指示した莫迦野郎共となんら変わりが無い。

 

単に死ぬのではなく、

戦争の中で生き、そして死ぬ事が、坪田への唯一の償いだ。

それがあの世の彼に謗られぬ為の、そして自分に対して恥じぬための、唯一の選択だ。

 

「笹嶋さん」

ビクリ、と笹嶋の肩が飛び跳ね、その後ゆっくりと後ろを振り返る。月明かりに照らし出された一人の小柄な男が此方にゆっくりと歩いてくるところであった。

「なんだ、君も起きていたのか」

彼であった。

「とうとう船酔いかね?」

笹嶋が悪戯っぽく言うと、彼は微笑して肩を竦めた。

「いえ、その方は未だ。部下の兵室は悲惨な状況になっていましたが」

部屋と甲板とを行ったり来たり。滅多に弱音を吐かない猪口ですらも、青ざめた顔をして、いやこれはなかなか辛いものですな、と呟いていた事を思い出し、彼はふっと笑った。

「無理も無い。私にも覚えがあるからね。一人が吐瀉(は)くと皆連動して吐瀉きたくなる。お陰で最初のうちなど寝不足でヘロヘロだ。朝になればなったで、やれ展帆だの、縮帆だのと言われては、足が竦むような高さで踏ん張らねばならん。その内高さにも酔って、帆の上で吐瀉く奴も居る」

「それは下の奴が悲惨ですね」

彼は苦笑して言った。

「まったくだ。お陰でその後は甲板掃除が大変だよ」

させられた時の状況を思い出したのか、笹嶋は一つため息をついた。

「・・・しかし、酔ったのではないとしたら、どうして此処へ?眠れないのかね?」

笹嶋がそう尋ねると、彼は手すりに腕を乗せ、海を見つめながら答える。

「まぁそうですね。・・・でも僕の場合寝すぎて眠れないというのが適当ですが」

2日分は寝たかな、と指折り数える彼を見て笹嶋は微笑んだ。

「あなたはどうして?」

「考え事をね」

笹嶋もまた、彼と同じ様に海原に目を向けた。

「兵室へ篭っていると、考えが閉鎖的になる。尾を噛んで回る犬みたいにね。だから考え事をする時は、よく此処へ来る」

ぎぎい、と帆架が軋みをあげる。凪いでいる波を裂いて、ゆっくりと艦は進んでいた。しかし笹嶋の心は、座礁した船のように頼りなく波間に揺られている。

「考えても結論が出ない事は判っているのだが――考えずにはいられない。特にこんな静かな晩は」

静寂は人を物憂げにする魔力がある。だからそれに囚われないために、自分は波の音を、風の音や帆架の軋む音を聞きに来るのかもしれない。

彼は相槌も打たず、只海面に視線を馳せている。沈黙が二人の間をたゆたった。

「答えの出ない問題は考えない事です」

先に口火を切ったのは、彼だった。

「・・・あるいは忘却してしまう事。振りでも良い。後悔は人を前に歩かせてはくれません。反省はすべきですが」

しゃんとしろ、と言わんばかりの口調だった。笹嶋はそれに苦笑する。彼なりの慰めのつもりなのだろう。

「手厳しいね」

「同じところを回っていれば楽です。しかしそこから発展することはない。更に深みに嵌って溺れてしまいます。だからこそあなたは此処へ来た、と僕は解釈したのですが」

「いや、その通りだよ」

笹嶋は笑ってそう言った。

「堂々巡りをしている自分の思考を再構築するために、私はここにいる。――なんだか君の方が私を理解しているようだな」

ふとそう言った言葉に、彼はかすかにはにかんだ。

「・・・観察眼は、あるつもりです」

でも、よかった。と続けた彼に、笹嶋は訝しげな視線を向けた。

「なにがだね?」

「莫迦な事を考えているのかと」

まっすぐに向けられた瞳に、笹嶋はどきりとした。彼はそこまで見抜いていたのか。何もかも見透かすような彼の視線から逃れるように、白み始めた雲間に目をやった。

「・・・正直、考えもした」

彼の眉がぴくりと動く気配がする。笹嶋は「しかし」と弁明するように続ける。

「悔しいがどうにもならない事だ。このままここから身を投げればそれは楽になるだろうが、その後はどうする。この艦は?部下は?遺された妻子は?国は?・・・わたしは、その責任を放棄してまで楽になりたいとは思わない。むしろ、この苦界でとことん苦しみぬくほうが、よほど気が休まるような気がするんだ」

殆ど独り言であった。

「というか、死んだ人間に義理立てをするなどということ自体が、生者の驕りなのかもしれないが。それこそ消えかけた月を掴もうとするようなものだ」

「・・・坪田中佐殿ですか」

笹嶋は彼の口からその名が出てきたのに驚いて彼を振り返った。

「あなたが僕と同じ様に、この戦いで大切な者を失ったと言う事は聞きました」

彼は親友という表現を使わなかった。

「・・・惜しい男を亡くしたよ」

笹嶋は言って、雲間から緩くうねる海原へと視線を落とす。「その一言だけだ。今は」

「そうですね」

彼は、いつもの調子でそっけなく返事を返した。

 

と、後ろから不意にばたばたと水夫の足音が聞こえた。どうやら起床の時間になってしまったらしい。だらけた調子で話をしながら甲板に姿を現した彼らは、笹嶋と彼の姿を認めるやいなや、慌てて敬礼をした。

笹嶋はそれに苦笑して答礼すると、彼に向き直った。

「いや、年寄りの愚痴は長くていかんな。いい加減体も冷えただろう。君ももう兵室へ戻った方がいい」

「考えは纏まりましたか?」

彼は戻るとも戻らぬとも言わずに尋ねた。笹嶋はそれに微笑んで言う。

「纏まった――というよか、とっくに答えは出ていたよ。私はどうやら、目の前の結論に至るのが恐くて、今の今まで同じところをぐるぐるやっていたらしい。今は個の哀愁に囚われるべきではない」

 

なぜならば、自分達は一個人である前に軍人なのだから。そして自分はその軍人たる部下達を指揮する立場にある。自国が亡国となるかもしれないと言う時に、自分だけ感傷に浸っている場合ではない。

国はまだ生きている。そして、彼らもまた。

ならば自分の今すべきことは死者を悼む事ではなく、今生きているものを出来るだけ多く生かしてやる事だけだ。

・・・自身の道は、その後ゆっくりと定めればいい。

 

「僕も全く同意見です」

独り言のように呟かれたその言葉に、新城は頷いた。

「人死にが恐いのならば、そうならないようにするしかない――というのが今回実戦で学んだ事です。前線の僕らが負ければ、帝国は皇国へなだれ込む。そうなった結果がどういったものかは、どんな莫迦でも解ります。敗戦の理由が指揮官個人の感情によるもの、なんていう事は何としても避けたいですから」

というか、と彼は更に続ける。

「結局僕らは面子の為に戦っているのかもしれません。それらはあの莫迦共と大して変わりは無い。しかし、「只の」莫迦と決定的に違う所は「自身の面子」では戦っていない、と言うところでしょうね」

「国の」面子、「軍の」面子。大きな意味の利己主義が、この男自身と部下、しいてはこの<皇国>までも救った。

「僕には「この国を守る」なんていう格好良い理由は似合いません。戦場では、思想は兵士を守ってはくれませんし。・・・かと言って肉体のみが自身の盾、などと言えるほど鍛えているわけではありません。だとすれば、僕の、僕自身の盾はたった一つ」

そこで彼は一つ呼吸した。

「徹底的な利己主義。これしかありません。己(おのれ)・・・国を活かすことならば、どんな事も厭わない。不利になれば不利になるほど回る頭は、その賜物ですね」

「市民達が聞いたら、なんと傲慢な、と思うかもしれないね」

そう継がれた言葉に、彼は酷く醒めた目をして、笹嶋を見上げた。

 

「・・・お忘れですか?僕は軍人なのですよ。そして中佐、あなたもだ」

 

笹嶋はただ黙ってその話を聞いていた。

「軍が守るべきものは「個」ではありません。国である「己」を守るのが仕事です。勿論犠牲は出ます。そしてそれはこれからももっと増えるでしょう。もし責任を取れといわれたら、取れば良い。でもそれは戦争が終わってからです。それが軍人で、指揮官である僕の最後の仕事だと思っています」

それとも、と嗜虐を含んだ表情で彼は笹嶋を見つめた。

 

「誰も死なず、死なせず、殺さず、殺させず、血も流れない―――そんな戦争があると、自分には出来ると、お思いなのでしょうか?」

 

「できないね」

笹嶋はさらりと言った。先刻の口調とはうって変わった鉄のような響きに、彼はほくそ笑むように目を細めた。

「そんな御伽噺は有史以来聞いた事がない。そしてそれは、以降も聞かれる事がないだろう。誰もが知る英雄譚だって実際紐解いてみれば、未曾有の犠牲と、血なまぐさい現実が口を開けている。大仰に書かれているのは、そのほんの一部分だけだ。被せられている綺麗な布を一枚一枚剥いでいけば、「戦争」という事実のみが残る」

「そして僕らは、その未曾有の「戦争」というのの真っ只中に居るんですよ」

彼は至極楽しそうに言う。

「向かってくる敵を砕き、踏みにじり、友軍の屍を橋にして駆け抜ける。「己」を守るというのは、「戦争」をするというのは、そういう血なまぐさい、残酷な事なんですよ。」

「・・・つくづく恐ろしい男だな、君は」

30にもならない男の、ある意味絶望に似た達観に、笹嶋は素直にそう言った。一体この男の身の上にどんな事が起こったのだというのだろう。10年そこそこの軍歴の中で彼は一体どんな地獄を垣間見たのだろうか。

 

きっとそれは笹嶋には想像も出来ないほど陰惨で、残酷であったに違いない。

 

「まったく不愉快な事です」

何に対してそう言ったのかは判断がつきかねたが、恐らく全ての事だろう。と笹嶋は勝手に結論付けて、苦笑した。

 

「―――あなたの口から別の男の名前が出てくるなんて」

 

しかし、小さく吐き捨てる様に続けられた言葉にその予想は見事に裏切られる事になる。

暫く二人の間に波間を裂く音だけが響いた。

朝日に向けられた彼の顔を暫くぽかんと見つめる。真意を計りかねて尋ね返そうか迷ったが、結局何の言葉も継げることができなかった。

「あなたがここに居られるだけの理由になれる・・・とは思っては居ませんが」

皮肉な表情の奥に宿る、鈍い痛みに耐えるような感情(いろ)に笹嶋はすこしだけ気おされた。

 

「あなたがここに居る事でこの世に繋ぎとめられているものが居る事を、どうか覚えていて下さい」

 

「・・・そうだな」

だしぬけにそう継がれた言葉に彼は答えなかった。

分かっていないくせに。

沈黙が、そう語っていた。

 

 

去りゆく彼の背をなすすべもなく見送って、笹嶋はふと彼の見ていた朝焼けに眼をやる。

 

答えなど、わかりきっている。

しかし手を伸ばせないのは、恐いからだ。

闇の底に落ちるのが恐いからだ。彼と同じ景色を見る事に、躊躇いがあるからだ。

しかし、同時に闇の底に落ちたいという気持ちもある。

ほんの少しの常識とやらが、笹嶋の心にブレーキをかける。

 

あヽ こたえられない てをのばせない とわかってゐても

それでも わたしは わたしのかげを のばすのだ

あなたが やみのそこより あらわれて

このてんじょうから わたしをうばいさってくれる と

 

彼から伸びた枝葉が私の影を掴もうと手を伸ばす。

堕ちよ、と耳元で囁く。

眼を閉じ待っていればいずれ彼に絡め取られよう。

 

あヽ このきょりは このへだたりは かぎりなくちかい

それでも わたしは わたしのせんを こえることはできない

 

あヽ このじかんは このおんどさは かぎりなくとおい

それでも わたしは わたしのこころを とめることはできない

 

ならばいっそここで闇に呑まれてみようか。

くだらないしがらみや階級を捨てて、独りの人間として彼の隣に座ろうか。

(坪田、どうやら私が彼岸(そちら)に行くのはもう少し先になりそうだ)

笹嶋はそう心の中で独りごちて、海の中の彼に微笑んだ。

 

 

ねがわくば おたがいの すみやかな  が

 

 

(ああ、きっと私はお前以上にろくな死に方をしないだろうな!)

 

 

 

 

 

わたしの せん を

わたしの こころ を

 

うばいさりますように

 

 

 

 

 

 

伸ばされた枝葉が、私の影を掴んだような気がした。