善にも悪にもなることが出来ないのならば、

一体私は何者なのだ。

 

ああ、でも私はそれでも、何者かにならねばらぬ。

強靭な意志で思いを貫けるような、何者かにならねばならないのだ。

 

 

 

善き悪党

 

 

 

――――悪を為すのが悪党だ、というのが一般常識だ。

しかし、ここ――特にこの戦争という特殊な状況下に措いては、その常識はちり紙の価値すらもない。

なぜなら、善人は人の為に悪を為すことがあるからだ。

自分の信じたもの、信じた人のためならば、人を笑顔で殺す事も厭わない。

エゴとナルシス、自己陶酔と自己満足と、数々の素敵な言葉で包まれた確固たる「正義」。その歪んだイデオロギーが、「自分を疑う」という人間のみに与えられた美徳を――――

 

「・・・君は情事の後でも、本を読むのかね」

 

呆れたようにそうかけられた言葉に、新城の集中が解けた。振り返ると、彼はうつ伏せになり布団から半分体を擡げた状態で此方を見ていた。

「あらゆる意味で常識外れだと言う事は知っていたが・・・その調子だと最中にも読んでいそうだよ、君は」

「起きていたんですか」

てっきり僕は気絶していたとばかり思っていました。と続けられた言葉に、彼は薄く微笑んだ。明かりに照らされて影を帯びているその笑みが妙に蠱惑的に見えて、新城は心の端に現れた凶暴な感情を理性で何とかねじ伏せる。

「痛みには慣れているつもりだよ――随分と理不尽な事で殴られもしたが、こんな事は君が初めてだがね」

文机の座椅子に怠惰に体を預けていた新城の片眉がピクリと上がる。一瞬疑うような視線を馳せた後、彼は口の端だけで笑った。

「そいつは良かった。初めてではない、などと言われたら、僕は今度こそあなたを壊してしまいかねない」

冗談でもなさそうな調子で告げられた言葉に、笹嶋は苦笑して両手を降参するように挙げた。

「・・・これ以上はもう勘弁してくれ。只でさえ毎夜腰痛に苛まれているんだ。若者の体力にはとてもついていけない―――老人は労わって欲しいね」

労わられていない事は、体に散る痣が証明している。接吻痕とはまた別の歯形のような跡が、水軍にしては白い肌に浮き立って見えた。

そして首の手形もまた。

愛の証にしては乱暴すぎるそれに、笹嶋は手をやって二、三度撫でた。

「隠居はまだ早いんじゃないですか?お互い擦り切れるまでこき使われるしがない商売をしている身です。足が「たつ」うちは、まだまだ現役ですよ」

下品な事をさらりと言ってのけて、新城はまた本に眼をおとす。

「・・・先刻から何を読んでいるんだい?」

覗き込む真似をするように首を傾げると、新城は本を閉じて此方に表紙を向けた。

それは、皇国の軍人ならば一度は目を通しているであろう有名な作家の本であった。唯一軍のお墨付きを貰った元軍人の著書。彼も見た事はあるだろうが、あまり面白い内容ではない。それは彼の表情も如実に表している。

「随分と懐かしい物を読んでいるな。私もよく思想教育にと読まされたよ。――確か「善人は信じるな」とかいう内容だったと思うが」

「被害妄想と強迫観念に囚われた精神障害者の戯言の集大成ですよ・・・只の読み物としては、そこそこ面白いですがね」

吐き捨てるように新城が言って、机の上にそれを放りだす。歯に衣着せぬ物言いに、彼は苦笑して言った。

「おいおい。退役したとはいえご存命だろう、そのお方は。直系ではないにしろ、やんごとなき血をひく高貴な方だ」

そうは言ったが、満更でもない彼の様子に新城は薄昏い笑みを浮かべた。

「『実戦を経験した事もない内勤将軍』の間違いでしょう。彼が現役の頃には、たいした戦争もありませんでしたからね――それにそのやんごとなきお方は此処には居ない。居ないのならば、死んでいるも同然です」

「・・・やれやれ。君にかかると畏敬される世のお偉方も形無しだな。間違っても私の前以外でそんな事は言ってくれるなよ?下手をうったら史上の人になりかねん」

ため息と共に言われた言葉に、肩をすくめた。

「下手を打つのは、出来ればあなたの前だけにしたいものですよ、笹嶋さん。あなたを前にすると色々と押さえが効かなくなるもので。――体は大丈夫ですか?」

「酷くしたんじゃなかったのかね?」

今更のように尋ねられた言葉に、笹嶋は少しばかり意地の悪い顔をして言った。

「・・・ならば答える事は決まっている。そうだろう?」

「そうですね。でも僕は自分のした事には責任を持つのが義務だと思っておりますので・・・――というか」

彼はそこで苦笑した。

「女々しいことこの上ない話ですが、確かめずには居られない。僕の証が、痕が、そうやって少しでもあなたの中に残ればいいと、そう思っているわけです」

「答えを知っていて、わざわざ傷を抉るようなことをすると?私が「大丈夫だ、なんともない」と言ったらどうするつもりなんだね?」

「――それこそ、答えは決まっているじゃあありませんか」

彼はくつくつと嗤って立ち上がると、笹嶋を真上から見下ろして言った。

 

 

「もう一度、「する」だけです」

 

 

ぞくり、と言いようの無い悪寒が笹嶋の背を走り抜けた。獲物を前にしたかのような捕食者の視線に、笹嶋は自分が下手をうったのを痛感する。

浮かべられた笑みはかわりが無いはずなのに、獰猛な牙がちらりとのぞいた気がして、笹嶋はたじろいだ。

まずい。

 

「言ったでしょう?笹嶋さん。僕は――何度でも、あなたを貫くと」

 

もともと文机と笹嶋が寝ている布団の距離は離れていなかったが、その距離がぐっと縮まった感じがして身を竦ませる。

かすかな怯えを動物的に感じ取ったのか、彼はますます笑みを歪ませた。

「―――ああ、どうかそんなに怯えないで下さい・・・ますます押さえが効かなくなる」

一歩、また一歩と近づいてくる。

歩みは決して遅いものではないが、笹嶋の目にはひどく緩慢な動作のように映る。

ゆらり、と一瞬行燈の光が揺らめいて、次の瞬間には、乱暴な動作で頤を持ち上げられていた。

眼前に彼の凶相が迫った。

口元には酷薄な笑みが浮かべられ、眼は一寸たりとも笑ってはいない。

 

「笹嶋さん、僕が先刻読んでいた本。あの中に、一節だけ共感する部分がありました」

ぎりぎりと頤を掴んでいる手に力を入れながら、彼はひどく優しい声音で言った。

「全体を通してみれば主張している事は下らないですが、その部分だけは真理だと思います」

「・・・っ、戦場にでて・・・た、戦う者に――真、理など。必要なのか・・・ね」

顎を掴まれている事と締め付けられる痛みに、笹嶋は顔を歪ませながら少しだけ笑う。

真理とは、勝利の後から遅れてやってくるものだ。

勝者の道理が、そのまま真理になる。そしてその真理が更なる勝者によって淘汰される。

移り変わるものなのだ。それは。

笹嶋の言いたい事がわかったのか、彼は嗤う様に眼を細めた。

「何にだって理由や真理や正義は必要ですよ。――建前といっても良いか。そうでなくてはこんな異常な世界には生きられません。誰かのために、何かを為している。その誰かというのは、なにも他人に限ったことではありませんが、とにかく理由をつけて自分を安心させなければなし得ない事も世の中には沢山あるのです」

 

ちょうど、あなたと私の関係のように。

 

無言でそう付け足されたような気がして、笹嶋は薄く苦笑した。普通の世界から見れば、彼との関係は異常の最たるものであろう。陸軍と水軍(名誉階級をもってはいるが、彼は水軍に属しているわけではないので省く)、若者と老人、男と男。どれをとっても相容れるものではない。海よりも深く、山よりも険しい隔たりが、自分とこの男の間にはあるはずなのに。

その垣根を軽々と飛び越えるという彼の理由とは、一体何なのだろうか。

誰かの為に何かを為している、とは一体「誰」の事なのだ。

 

(その誰かというのは、なにも他人に限ったことではありませんが―――)

 

ああ。そうか。

彼は――彼はきっと、いや、「絶対」に・・・

 

「善が、善だと言えないのならば、世の中の人間はみな悪党という事になります。――しかし誰だって悪党にはなりたくない」

地獄におちた罪人の浮かべる笑み。

ああ、彼は知っている。自身が当に地獄に堕ちてしまっている事を。

「――だからこそ善人の皮を被る。うつろう真理とやらに必死で縋って、自身に安寧をもたらしている。他人の為に、正義や愛や善を成していると本気で思い込む」

殆ど独白であった。

「しかしそうでなくては生きていけない。帰る場所が無ければ戦えない。理由が無ければ誰かを・・・あなたを――――抱く事も出来ない」

彼の言葉は、笹嶋に向けられたものではない。口から出た言葉の刃が自身に跳ね返り、彼の心を深く抉っていた。

 

 

「僕は―――そんなのは御免だ」

 

 

驚くほど弱々しく、しかしはき捨てる様に彼は言った。

いつの間にか顎を持ち上げていた手は畳みに落ち、射すくめるように向けられていた視線は床を見つめていた。

暫く、沈黙が二人の間を遮る。重々しい時間を裂くように、口火を切ったのは笹嶋であった。

 

「人間は善と悪、両方を持っているものなのだそうだ」

 

全く繋がらない言葉に、彼は訝しげな視線を笹嶋に投げた。

「完全に善なる存在、それは宗教論的に言えば、「神」しか居ない。全ての人に公平で、全ての人にとっての善。しかし、それは此処には無い」

彼はじっと笹嶋の言葉に耳を傾けている。訝しげだった表情も、今は全て消え、その思いを計ることは出来ない。

笹嶋は微笑んでいった。

「君は、神じゃない。人間だ。今の君は、まるで神から自分を断罪してもらっているようにみえるぜ?――君は先刻自分で言っていたじゃあないか。此処に居ないのならば、死んでいるのと同じだ、と。そんな死んでいるような神に何を裁いてもらうというんだい?」

口調は穏やかであったが、彼はそれが情けない自分への優しい叱責のような気がして、視線を笹嶋の首辺りにすべらせた。赤い自分の証が、彼の首に張り付いている。

「善と悪、というのは、判断がつかないんだよ。こと、常世ではね。それを判断できるのは・・・それを決められるのは、つまるところ自分しかない。自分の罪悪を裁けるのは、自身の良心だけだ」

他人にとってはまごう事なき悪であっても、別の人間にとっては正義になりうることがある。

戦争がその最たる例だ。

 

非難するのは容易い。しかし、それが絶対悪であると、一体誰が証明できる?

これ以降その手が血に染まる事はないと、どうやって断言できるのだ。

 

完全に善になれるのは、死んだ人間だけだ。この世で生きているものは、善や悪には『なりきれない』。どんな善人でも悪党でも、生まれた時からそうだったということはありえないのだ。

土壌がある。環境がある。そこに至る経緯がある。

それは道端で虫を踏み潰したという、些細な理由かもしれない。

しかしそこで浮かんだ感情が、弱者を虐げるという愉悦であったか、小さきものの命を奪ってしまったという罪悪だったかで両者は大きく道を違える事になるかもしれないのだ。

 

彼は多分両方を持っている稀有な人間なのだろう。と、笹嶋は思う。

 

「自分が善だと思っている事には、誇りをもってやり遂げなさい――勿論、他人はそう思わないかもしれないが、その責任を果たすのは、生きている君にしか出来ないことなのだからね」

どう果たすかは、君が考える事だが。と苦笑と共に言われた言葉に新城は途端に瞑目し眉間を揉んだ。

「・・・なんだかとてつもなく無責任な事を言われている気がしてきました。でも、まぁそうなんでしょうが」

責任を負う、という言葉や行為自体も、責任を負ったものの自己満足かもしれない。という考えを一時捨て置いて、彼は目の前の笹嶋に微笑んだ。

「・・・では、僕は僕なりの善事を実践することにしましょう」

「? どういう事だね?」

緩く結んでいた帯を解き始めた彼に、訝しげな視線を送る。それと共に一抹の不安を感じた。

乾いた音がして、畳の上に帯が落ちる。それが彼の最後の理性のような気がして、笹嶋は慌てて彼を見上げた。

「お、おいおい、新城君。まさか・・・」

また、という言葉はもはや口に出来なかった。するり、と滑るように彼は笹嶋の上に覆いかぶさる。

「『善だと思っている事には、誇りを持ってやり遂げなさい』――いい言葉です。僕にとってあなたを手に入れると言う事は、この上も無い善い事ですから、責任をもってやり遂げる事にします。――僕なりの方法で」

「そんなことを善事だと言い切れるのは、恐らく君だけだぜ?新城君・・・」

「おや、善と悪を決められるのは、本人しか居ないとの事でしたが?」

僕の聞き間違いでしたか?と白々しく継げられた言葉に、笹嶋はため息をつく。本当にこの男は!

「病気だね、君は」

しかも、かなり性質の悪い。

彼はそんな笹嶋の悪態に緩く笑うと、下腹に手を滑らせる。

 

まぁこんな不毛な行為を、大して抵抗もせずに受け入れている自分も彼と同じ病気にかかっているのだろうが。

老躯に走る快感にこのまま身を任そうか一瞬逡巡した笹嶋だったが、やがて諦めたように双眸をゆっくりと閉じる。

 

この行為を続ける事によって、彼をより手堅く利用しようとする自身の思惑に低く苦笑する。

やはり、自分は汚れている。彼よりもよっぽど悪党だ。

彼の想いを知りながら、それを利用しようとしている。

しかし、それだけではない感情もまた、笹嶋の心の多くを支配しつつあった。

 

善にも悪にもなりきれないのなら、せめて「善き悪党」でありたい。

 

誰かの為に、何かを為していると思い込めるだけの強さをもつ、悪党に。

誇りをもって、何かを成し遂げるだけの力と勇気をもった何者かにならねばならないのだ。

 

 

それがきっと、自分の善なのだから。