只一輪だけ咲く美しい花を 手折ってみたいと思ったことはあなたにはありませんか。
誰にも見せずに、自分の部屋の花瓶にさして、 散りゆくさまを見ていたいと思ったことはありませんか。
すべてから切り離して、隔離して、二人だけの世界で。 たとえ朽ちるしかないのだとしても、
私は。
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凍える華(前編)
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あなたの首に巻かれた包帯の意味を知った時、 私が一体どんな気持ちだったかあなたには理解できるでしょうか。 もっと早くに伝えておくべきだった、などと取り留めの無い後悔をしてみたところで、 今更あなたと彼の間を引き裂く事など出来るわけも無く。
伝える。
それこそ何を伝えようというんでしょうね。 恋心などという綺麗な感情はとっくに昇華してしまって、醜い、とても醜い感情しか今の私には残っていないというのに。 水軍にしては白い首筋に巻かれた、更に白い包帯。 その下には、血よりも鮮やかな彼の証(しるし)があるのでしょう? 執着という言葉すら生ぬるい、彼の激情。それこそ愛などという言葉でなど到底括る事も出来ない、辛く苦い感情。
解っていますか。 あなたが今どこに立っているのか。
もう一歩其方に行ってしまえば、もう戻ってはこれない。 でももう戻ってはこないのでしょう? 彼の手を握ってしまったのでしょう? 闇に囚われてしまったのでしょう?
あなたの船はどこに向かっていますか? そこに道しるべはあるのですか? 隣には誰がいるのですか?
・・・最後の質問は愚問でしたね。
でもはっきりしている事は、そこはもう私の知っている場所ではなくて、行く先には数多の地獄が口をあけているという事です。
(約束したからね)
そう言ってきっとあなたは微笑むのでしょう。 (約束を守れない男にはなりたくないんだ)
無間に堕ちるあなたを為す術なく見送って、後には一体何が残るのでしょう。
今程自分の無力を嘆いた事などありません。 あなたを奪い去る力が私にあれば。 私に彼ほどの邪悪があれば。 悪党になれるほどの勇気があれば。
私にはまだひとかけらの救いが残されていたのかもしれません。 果てない自己満足の交わりのなかで、あなたに私の証(しるし)が残せたのかもしれません。 白い包帯の下に凍えるように咲く彼岸の華のような。 邪悪で美しい華を咲かせることが出来たのかもしれません。
憎まれてもいい、罵られても、謗られてもいい。 憎まれず、罵られず、謗られもせずに消えていくよかはずっと良い。
あなたの中に私は残されたい。 彼のように強烈に、苛烈に、私はあなたの中に種を残したい。
今となってはもう叶わない事ですが。
私は今上手く笑えていますか。 「何も知らない部下」をきちんと演じていますか。 ・ ・ 「笹嶋さん」
彼がそう呼ぶたびに感じるこの絶望感は一体何なのでしょう。 こみ上げる名も無い感情が、決して切れない鎖のように私を縛る。
ふと、揺れても居ないのに足元がぐら付いた気がして身体を強張らせる。 足元に落とした視線を上げると、彼の視線とかちあった。
冷たい鉄(くろがね)のような彼の双眸は、相変わらずなんの光も映していない。 魅入られるように見つめていると、ゆっくりと彼の口の端がもちあがり、奇妙な弧を描いた。 暫く経って、それがようやく嗤っているのだと気づく。 視線はすぐに逸れたが、瞳の中にその残像が焼きついていた。
なにも出来ない自分に対しての嘲りなのか。 単に気まぐれによるものなのか。 どちらにせよ、良い意味ではないそれに歯噛みするしかない自分に嫌気がさす。
嗚呼、私には愛しい人に迫る赤口の前に飛び込む勇気すらもない! 風に揺られる野辺の草のように、彼らの前では為す術がない。
船を取り囲むようにウミネコが鳴いている。 私を嗤うように。ぐるぐると同じところを回っている。
鬼の前で屈託なく笑うあなたに、この声は届いているのだろうか。 私を嗤うウミネコの聲のように、あなたに私の声が。
私は私を残したい。 あなたの中に、私を残したい。 陰にはなりたくない。
私は 消えたく ない。
ふつり、とウミネコの聲が私の中で途絶えた。
「どうしたんだい?浦辺君、怖い顔をして」 「――――ウミネコの聲が」 「え?」 「・・・いえ何でも。それより司令。今夜の会議の事、お忘れじゃあないでしょうね」 「解ってるよ・・・やれやれ。会議で喋る内容なんていちいち決める必要があるのかね?このままだと咳払いのタイミングすらも決められそうだ」 「お偉方との会議なんてそんなものですよ・・・ご希望ならばそうしますが?」 「謹んで遠慮させてもらうよ・・・息を吸う時ぐらい自由にさせてくれ」 「・・・それと」 耳鳴りがする。 まるで身体が空気に解けてしまったかのように軽く感じる。 目の前にいる彼が酷く遠くに感じて思わず手を伸ばしそうになった。 自分の口からすらすらと出る空虚な言葉が、生ぬるい嘘を形作る。
「会議よりも早めにいらしてくださいね。内容の確認もありますから」
それはいつもの事。
「わかった」
彼の返事もいつもの事。
只一つ違っているのは、私の中の温度。 腹に篭る絶対零度のせいで、私の吐く息は今にも凍りそうだ。 顔に張り付いた笑みが上手く引き剥がせないまま、くるりと踵をかえす。
彼らから遠ざかっていく時に通り過ぎたウミネコが、ぎゃあ、と悲鳴のような聲をあげた。 |