凍える華は、闇に咲く 朱(あけ)の花弁を舞い散らせ 夜露に濡れて、狂い咲く
彼岸に咲く華 鬼の華
手折れば此岸(しがん)に戻れない
|
凍える華(後編)
|
思った通り、叱責や拒否の言葉は無かった。 ただ、凍えるような沈黙があっただけだ。
床に飛び散った書類。 殊更大きく聞こえる懐中時刻器の音。 彼の心臓の音が、痛いほど掴んだ手首から伝わる。 それは憎らしいほど一定で、まるで春の海原のように穏やかだ。
そして、それと相反する自分の呼吸音。
満足を感じたのは一瞬で、その後襲ってきた後悔に自身が押しつぶされそうになる。しかし、それでも何とか自分を保っていられるのは、皮肉な事に新城のあの笑みの為だ。 一番遠くに居て、一番近くに居る男。 水軍と陸軍という、ある意味この世で一番高い垣根を軽々と越えて、一番自分の近くに居たはずの男を攫って行ってしまった。
感じているのは嫉妬か、羨望か。
きっとその両方なのだろう。と、冷静な自分が分析する。――そしてそれに勝る劣等感。 それが、自分を駆り立てている要因なのだろう。 「・・・これは、一体どういうつもりだね」 長い長い沈黙のあと、彼が静かに口火をきる。それはことのほか鋭く浦辺の心に切り込んできて、思わず腕の力が緩んだ。 どうもこうもない、というのが浦辺の素直な感想であった。想い焦がれ、心の奥の衝動を只開放したに過ぎない。――そう、これはまさに「衝動的」であった。 彼のように何か深い考えが(在るのかは確認しようがないが、恐らく彼の事だ。あるのだろう)あるわけでもない。正直、この後如何しよう、などと情けない事を考えていた最中であったのだ。 だから、浦辺は心の中に残ったたった一つの、ある意味一番動物的な理由を述べる事にした。 「・・・欲情した・・・というのは、理由になりませんか」 一瞬沈黙が流れ、そして彼はふうとため息をついた。 「・・・君にしては、酷く単純な理由だね」 そしてまたえらく短絡的な。と、彼は続けて言った。 「惚れた腫れたに理由はつけられん、というが・・・惚れられた当事者としてはその経緯が知りたいな・・・何故、私だ?他にもその対象になりそうな将校などは沢山いるだろうに」 陸軍に比べて閉鎖的(物理的にだが)な海軍は、その手の輩が大勢居る事でも知られている。自分の欲望を手短な者で済ましてしまおう、という考えなら理解できないわけでもなかったが、浦辺のそれはどうやら意味が違っているらしい。 対象とされるのは、普通自分よりも年若い中性的な外見を持っているものが多い。年上が好み、と言うものもいるにはいるが、精々5〜7歳年上が関の山だ。 その中で何故、彼は親ほども年が離れている自分を選ぶにいたったのだろうか。 理由は先程語ったとおりだろうが、その経緯が笹嶋は知りたかった。 何か新城に通ずるものを感じたのかもしれない。もちろん、その温度差や深さは相当違いがあるのだろうが。
どちらの方が、とかそういった話ではない。 感じる想いに浅い深いは無い。 皆同じだけ深く、そして熱い。 違っているのは次元だ。新城はより闇に近い次元で笹嶋を「愛している」という。 限りなく殺意に近く、常の愛とは遠くかけ離れた複雑怪奇な代物。 だから彼は情事の際に首を絞める。
相手を絞め殺してしまわないのは、「殺意に最も近いが、殺意ではない」からであろう。
もしそれが完璧にそれであったのならば、笹嶋は既にこの世の人ではない。 まったく冗談じゃない。と笹嶋は心の中でため息をついた。一人でも手に負えないというのに! しかし前述の通り、「惚れた腫れたに理由はつけられない」のだ。人が人を好きになるということは、理屈ではない。夢見がちな意見になるが、外見にしろ中身にしろ、人間にそなわった第六感的な何かが働いて、感情が湧いて出てくる。 ならばそれを知る為には、その経緯を辿るしかない。 その経緯が、浦辺に――ひいてはあの不可解極まりない新城という男に繋がっているような気がするのだ。
「何時からだね」 まるで症状を尋ねる医者のようだな、と笹嶋は思った。それは浦辺にとっても同じだったらしく、少しだけ不機嫌に言う。 「・・・病気じゃあるまいし、解りませんよ。艦長は奥方様を何時から好きになったか、はっきり覚えておいででしょうか」 「まぁ、それはそうだ」 愚問だったな。と笹嶋は苦笑して言った。 「・・・では、質問を変えよう。私の何処に、そんな魅力を感じる?」 それは新城にも繰り返しした問いであった。10代の生娘のような問いだが、他に表現しようがないのだからしょうがない。笹嶋は多少気恥ずかしさを感じながら、浦辺にそう問いかけた。 「・・・それは、彼にも尋ねた問いですか?」 何かに挑戦するような瞳で、浦辺がそう言う。笹嶋がつまると、彼は痛みを堪えるような光を一瞬浮かべて、視線をそらした。 沈黙を是と受け取ったのか、浦辺の口から乾いた嗤いがもれる。 「はは・・・私が知らないとでもお思いでしたか?私の仕事の中には策を施す為に皇国に対して有益な情報を得るという事も含まれているのです」 そして、と浦辺は痛みを堪えかねたかのように、短く息を吐いた。 「時には「情報」を得る為に諜報紛いの事もする事もあります」 「調べたのかい?」 驚いて笹嶋は言う。心のそこからの問いであった。それに浦辺は答える代わりに、彼の顔を見た。
彼を船に乗せたその時から、疑念を抱いていた。 いや、もしかしたらもっと以前にそう感じていたのかもしれない。 しかし気付くのが怖かった。知ってしまうのが怖かったのだ。 自分に勝ち目はないのだという事を。
疑念が決定的になったのは、彼の首に巻かれた包帯を見たとき。 彼が特殊な性癖を持っているということは、風評で知っていた。
公私混同だとは重々承知していたが、自分を止められなかった。 「船から降ろした後の足取りを追うのは・・・案外簡単でしたよ」 悪びれずに言ったのは、せめてもの意趣返しのつもりだった。しかし笹嶋はその言葉にも揺らぐことなく、静かに彼を見つめていた。
「・・・その事を非難するつもりはないよ」
何か諦めに似た響きを纏わせて、笹嶋はそう言った。 「確かに、上司と部下という関係を大きく逸脱している部分があるからね。君に『調査』されても私は――」「何処が、と仰いましたね?」 彼の言葉を遮るように浦辺はそう言った。 「――では、私は『彼と同じだ』と申し上げておきます。貴方に惹かれた経緯は違えど、意味は同じでしょうから」 「君と彼は違うよ」 はっきりと断罪するように告げられた言葉を受けて再び浦辺の瞳が揺らいだ。その動揺を汲んだのか、安心させるように彼は微笑んだ。 「・・・いや、別にどっちが良いとかそういう話ではないんだ。君がどんなに望んでも彼になれないように、彼もまたどんなに望んでも君にはなれない。経緯が違って意味が同じなんて思いは二つとは無い」 掴んでいた手首に優しく手をやって、笹嶋は言い聞かせるように言った。 「――浦辺君、君は君だ」
これでは、自分は駄々をこねている子供と一緒だ。と浦辺は苦々しく思った。 欲しい欲しいと思っていても欲しいものは手に入らない。そう思って起こした行動ではなかったのか。 浦辺はやおら力を入れると、笹嶋を引き寄せた。 予期せぬ力に笹嶋はよろけて、案外簡単に彼の身体に収まった。近づいた彼の顔をまともに見ることが出来なくて、浦辺は瞑目する。
息をするたびに、彼の匂いが流れ込んでくる。 体温が自身の皮膚を通して感じられるようで、浦辺はしっかりと彼の身体を抱いた。 首に咲く証を見ないように瞼をしっかりと閉じて、今だけは自分の物の笹嶋を腕の中に感じながら。
それに笑って、笹嶋は浦辺の頭を撫でる。 自身の子供のように頼りなく縋りつく浦辺を、そしてその思いをその手で受け止めるように。
あとどれくらい経てば、彼の中に自身の華を咲かせられるのだろうか。 決して散らず、忘れられない華。 彼が証として残す毒々しい華ではなく。 誰にも類似しない、正真正銘、自分だけの華。
いや、待っているだけでは駄目だろう。 うらやんでいるだけでは駄目なのだ。その思いに蕾をつけるためにも、行動を起こさなくてはならない。 浦辺は、ゆっくりと瞼を持ち上げると、顔を上向かせた。 強く掴んでいた手を外し、その震える手を彼の頬にやる。
そして顔を近づけて彼に口付ける。
反対側の手は、彼の首筋に。 白い包帯が巻かれた『彼』の証の上に置かれている。 掌から伝わってくる笹嶋の心音に少しだけ安堵してから、深く深く口付けた。
彼への想いには、やはり理由はつけられない。
しかし、浦辺の中にはしっかりと彼の――笹嶋の華が咲いている。 雨に打たれても散らない、忘れられない華が。
そうか、と何か得心がいったように浦辺はひっそりと微笑んだ。
つまり、そういう事なのだ。
自分の想いに証は要らない。 こんなにもしっかりと彼が咲いているではないか。
口付けたからどうこうという事はない。きっと笹嶋はこのあとも変わらないのだろう。 そして自分も。彼の言葉を借りるのならば、「君は君」であるからだ。
代わりではなく、自分だけの華を彼の中に咲かせれば良い。 新城の証に負けない程の、大輪の華を。
接吻などされたのは何年ぶりだろう、などと言う笹嶋に浦辺は微笑んだ。 覚悟してくださいね、と暗に思う。 私は彼とはまた違った意味で、「容赦」のない男ですから。
時刻器を見ればそろそろ連中が集まる時間が来ていた。何もなかったかのように床に散らばった書類を纏めて彼に手渡すと、浦辺はそのままの笑顔で言う。
「・・・大分遅れましたが、これが会議の資料です。諸事情で確認する時間はありませんが、まぁその辺はよしなに」 「大部分が君のせいのような気がするがね・・・「諸事情」はもういいのかい?」 思ったとおりの反応に浦辺はええ、と頷いた。 「それはまた―――追々に」 追々にあるのかい、とため息をつく笹嶋をとりあえず席に座らせ、自分もまた隣に座る。
これでいい。今は、まだ。
彼の中についた蕾が、風に揺られてふわりと花弁を広げたような気がした。 |
凍えぬ華は、宵に咲く 闇の帳が降りきらぬ 昼と夜との寸の間に
此岸に咲く華 想い華
此岸に戻れとその身を揺らす |