転進、転進、また転進。

なんとも、僕に似合いの仕事じゃないか!

 

 

雪中にて

 

雪が、降っている。

真っ白な雪の中に、息を殺して待っている自分。隙あらば鳴ろうとする歯の根を食いしばって、狂気と恐怖に耐えている。

(新兵と大差ないな、こればっかりは)

口の端で苦笑すると、前方を睨みつける。

まともにやり合えば、2刻ともたない。当然だ。頭数からして違うのだから。

こんなことは狂気の沙汰だ。こんな事をやるのは、よっぽどの「英雄」だ。

(死んで英霊として奉られる?冗談じゃない!)

全滅の様相が頭にまざまざと浮かんで、無様に震えそうになる。

尿意がなくて良かった。そうでなければ、今頃失禁してしまっていたかもしれない。と頭の隅で思い、それから新城特有のゆがんだ笑みを浮かべた。

(まったく、相変わらずの小胆、小心ぶりじゃないか。いや、むしろ余裕なのか?生きるか死ぬかの状態で失禁の心配とは)

まぁ、戦闘が始まってしまえば失禁してる余裕もないが。

うるぅ、と隣の千早が唸る。先刻から休んでばかりで何をしているんだ、と言いたげに鼻を腕に擦りつける。新城は優しく額を揉んでやると、彼女は素直に喉を鳴らした。

 

長い事こんな事をしていると(実際は期日10日程だが、その10倍に感じる)段々と凶暴な気持ちに囚われてくる。

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突いて、撃って、はい終わり。

 

人間は意外と簡単に死ぬ。

あの、盗賊達のように。

 

不意に笹嶋への憎しみが込み上げてきて、新城はこんどこそ本当に、心から微笑んだ。

殺意。戦場でこれほどの麻薬はない。殺意は恐怖を鈍らせる。

喉元に手をかけて力をこめて。心臓の鼓動がゆっくりと止まるまで。

どんな顔をするだろう?どんな気持ちなんだろう?やめてくれと哀願するだろうか。殺さないでくれと。

降参すると言うのだろうか?

あの、盗賊たちのように。

 

突き立ててやろう、想いのたけを全て。心臓に向かって真っ直ぐに。

注ぎ込んでやる、僕の狂気を。

鳴いても、喚いても、止まらない。止まれない。

動き出してしまったこの想いはもう止める事は出来ない。

 

誰にも。

だれにも。

―――僕にも。

 

しかし、まだ殺さない。

殺す必要性が感じられない。

しかし、必要性が感じられた時は、この僕がそう判断したときは―――

 

新城は獣のように上唇をペロリと舐めた。

「なにかよい案でも浮かんだんですか?」

猪口が微笑む新城に気づいてそう言った。

「地獄に向かってまっしぐらに突撃する―――それ以上の楽しい案があるか?曹長」

「ありません、大尉」

「だろう」と新城はその返答に満足したように言った。

「今から全滅必至の玉砕戦だ。空から鉛の雨、血の雨が降る。敵が四方八方からやってくる。首が千切れる。体に穴が開く。脳漿が飛び散って脳味噌が吹っ飛ぶ。きっと楽しいぞ、曹長。圧倒的だ。圧倒的不利だ。ここまで分かりやすいとなんだが楽しくなってくるな、ええ?」

彼は興奮して一気にまくし立てる。

しかし、猪口はそれが――玉砕戦だという事だという事が彼の本心ではない事は長い付き合いから理解していた。

彼はいかなる場合でも生き残る事を第一に考える。無駄死にはしない。喜び勇んで死にに往く男なら、自分は担いだりはしない。

「<皇国>・<帝国>合わせて大分逝ったから、今頃地獄はてんてこ舞いだろうな。これからもっと増える、もっと人が死ぬ。今頃地獄の閻魔はおおわらわだろう」

至極楽しそうに新城はそう言った。

「―――そうですね。では今のうちに言い訳でも考えておく事にします」

「はは、そうだな。その面倒は君に任せる。――だが常世(ここ)では僕が面倒を負う役だ。約束の刻限まで――ええい、手袋がジャマだな・・・」

「閻魔の使いがここにやってくるまであと小半刻――というところでしょうな。笹嶋中佐殿も酷な事をおっしゃるものだ」

「いまさらぼやいてもなんにもならんよ、曹長。礼はあとでたっぷりとせしめればいい」

歯で手袋の先を噛んで手から引っこ抜く。ポケットから懐中時計をだして、新城は不吉に微笑んだ。

 

今のうちにせいぜい怯えておくがいい。

 

「早く逢いたいな、笹嶋中佐殿に」

新城はまるで恋人に逢いたいと言うような声音で呟いた。それはどういう意味か、と尋ねようとした猪口は、彼の瞳をみて問うのを止めた。

彼の双眸は一寸も笑ってはいなかったのだ。

 

 

 

「敵影、見えました!」

小声で鋭く、見張りが叫んだ。

接眼鏡で覗けば、白い地平線の上にぽつぽつと何かが見える。兵士たちが一斉に総毛だった。

柄を握る手に、自然に力がこもる。

 

恐怖ではない。

興奮だ。

(絶死の環境での興奮か。新しい感覚だな、これは)

新城は淡々とそう思った。

しかし、どうやらこれだけの敵をみても無様に震えずにいられるのは、彼のおかげらしかった。

段々と頭が真っ白になってくる。しかし、別のどこかでは冷静に絵図を組み立てている自分がいた。段々と近づいてくる敵影。

数は多い。たくさんだ、数え切れないほど、たくさん。

思わず、新城は曹長をちらりと見た。

前方を見つめ、息を殺し、ぴくりとも動かない。やはり経験の差なのだろうか?

それなりに場数を踏めば、それなりに心構えは出来るようになる。莫迦は莫迦なりに、賢者はそれ以上に。

無様に叫ぶ事無く、命を諦めることができるようになる。

(僕にはまだ到底、出来そうにもないけどな)

最後まで足掻いて、もがいて、四面楚歌の絶望的な状態に陥っても、まだ模索しているんだろうな。

 

「自分」とは、そういう男だ。

 

嫌悪もなく、疑問もなく、ただ敵中にまっしぐらに突撃する自分だったのなら、こんなに苦労はしなかったろうに。

そうやって道理も理由も彼岸の彼方へと追いやった後には、ただただ静寂なだけの「死」があるだけなのだから。それは愛する者の懐中のように心地よいのだろうが。

(そんなのは、御免だ)

新城は心の中で吐き捨てた。

 

だれもかれもが、悲鳴を押し殺したような顔になっている。

あるものは張り付いたような笑みを浮かべ、あるものは無表情に眼前にひろがる絶望をただ見つめている。

真っ白な白雪を蹂躙し、行進する<帝国>。しかし今となっては、その雪原すら、彼らの体力を奪う敵にすぎない。

(なんという悲劇だ)と新城は思った。

(まるで救いようが無いじゃあないか)

敵を前にしたときの、自分達のなんと頼りない事か!

救いなど、最初から無いのだ。勝てるわけがない、まともに当たったのでは総崩れになる。増援も見込めない。物資もない。

無い無いづくしの戦場で、この状況で出来る選択はただ一つ。

 

「距離、500」

「射程距離に入るまで待て。兵を先走らせるな。ひき付けて確実に殺せ」

「了解しました」

「装填完了しました!」

「よろしい。では―――」

新城大尉はゆっくりと振り返った。兵士達は――ここまで戦い抜いた歴戦の武士は恐怖した。

彼の凶相には、凄絶な笑みが張り付いていた。

「――では、同志諸君。いざ地獄の道行きへと旅立とうじゃないか」

 

歯の根はとうとう、鳴らなかった。