約束とは 時に 自分の首をしめる 鎖である

 

 

 

小噺@

 

「それで」

一間の小さなベッドに腰をかけ、男はそう言った。

「僕は一体どうしろと?」

その声音は普段の彼と変わらなかったが、なぜか叱責されているような気がして笹嶋は居心地悪げにため息をつく。

室内の薄暗い電灯のせいで、今の彼はさらに凶相ぶりに磨きがかかっている。

むろん、それだけではないのだが。

「すまない――重ね重ね」

入り口近くにある箪笥から、真新しい制服(支給されたばかりのだ)を出しながら男は―笹嶋中佐はそう言った。

彼の着ていた制服は、すでに原型をとどめないほどに引き裂かれて床にあった。なぜかは推して知るべしだが、もちろんその原因は彼にある。しかし今はそれを追及する気にはなれない。

制服だって、ロハではない。

しかしそう言ったら言ったで、じゃあ制服代は僕が出しましょうか、それでおいくらなんです?などど言いそうで怖かった。

 

いや、絶対に言う。

 

大体そう何度も支給を頼んだのでは、担当官に怪しまれるではないか。

いや、既に怪しまれているのかもしれないが。そうでなければ、彼と部屋に入る度に呼び出されるなどという事は無いはずだ。

確かに艦は人手不足だが、実際に艦長が関わる仕事など戦中でなければ殆ど無いと言っていい。

記録官や導術士官達が頻繁にお伺いをたててくるのも、誰かの差し金だろう。誰かは簡単に予想がつくが。

「緊急の通信が入ったんだ。至急返事を寄越せ、とね。つまらん用事なら代行が利くだろうが、大命とあっては私が出んわけにはいかん」

「中佐殿が部屋に入るたびに大命が下るようじゃ、本部もてんてこまいでしょうね」

彼は嫌味さを微塵も出さずに嫌味を言った。笹嶋はまいったという風に眉間を揉んだ。どうやら彼は心底腹をたてているらしい。

「なにも全部がそれというわけじゃないさ。今回は本部直々のご通達なんだよ」

「同じ事です。邪魔されるということに関しては」

言い訳がましく言った笹嶋の言葉に、彼はにべもなくきり返した。

実際皇都に着くまであと2日と迫っていた。様々な公務を滞りなく終わらせ、その後でのことだから時間はあるようでない。

その貴重な時間を割いての『会談』(・・・)を邪魔されたのでは、たまったものではない。そう言いたいのだろう。おそらくは。

「・・・なるべく早く帰ってこれるようにはする」

なんだこの会話は、と思いながら目を逸らし、しどろもどろでやっと言った。

「約束ですか?」

彼は即座に聞き返す。笹嶋はうっと詰まった。既に彼は2度同じ事を言っている。しかし守れたことは未だなかった。

彼の言葉をかりるならば「一度や二度はあっても三度目はない」のだろう。

答えない笹嶋の言葉尻を勝手に汲んで、彼はこの上も無く「上機嫌な」笑みを浮かべてみせた。

「約束ですか、成程、成程。では僕はまた、ここで「大人しく」待っていればいいのですね?笹嶋「さん」。――ご心配なく。暇だけは無駄にありますから」

「い、一刻もあれば済む・・・と思う」

彼は、それに答えなかった。ただ、先ほどの気味の悪い「上機嫌」な笑顔でこちらを見ていただけであった。

 

笹嶋は、逃げるように退室した。

 

 

「・・・では、これを通達してくれ」

笹嶋は疲れ果ててそう言った。

大命の内容は信じられないくらいどうでも良い事であった。艦内の高級士官たちによる、果てしなく身の無い論議が交わされた後、ようやく纏められたのが、彼と別れてから一刻をすこし回った頃。

笹嶋は軍服のポケットから時刻器を取り出してため息をつく。やはり、守れなかった。

「司令、これからのご予定は?」

白々しく尋ねた浦辺に笹嶋は苦笑して言った。

「取り急ぎはない。が――・・・正直もう勘弁して欲しいな」

「何がですか」

「新式熱水巡洋艦運用の話など緊急でもなんでもないだろうに。それに今するような話でもない」

「・・・承認、報告には司令の確認と判がいります。たとえ緊急でなくても大命は大命。それに「彼ら」を降ろす頃にはみな忙しくなります――とても話し合う暇など無い。遅延して万一お叱りを受けようものなら、海軍全体の信用問題になります」

「それは、まぁ、そう――なんだが」

そもそも何故、熱水巡洋艦運用に大命が下るのだろうか。

そして何故、この時なのだろうか。

 

それについても、心当たりがあったが。

 

 

「―――人を待たせてある。もう行くぞ」

士官が全員退出したあと、笹嶋はそう言って踵を返す。「司令」と、浦部が思いつめた表情で呼び止めた。

「あれと付き合うのは・・・もうお止めになってください」

「やはり、君の差し金だったか」

笹嶋は苦笑して言った。

「彼は英雄です。負け戦とわかっていても勇敢に戦い、皇国の被害を最小限にとどめてくれた―――それは理解できます。でも、人としては――人間としては、私は許容できかねます」

苦い水を無理やり飲み込んだような顔だった。彼は彼なりに自分を案じてくれているんだろう。

「英雄――か」

笹嶋は考え込むような顔をしてから言った。

「実際の彼は、それとは程遠い男だよ。だが底知れぬという意味では――彼は英雄と呼べるべきものになる資格があるのかもしれない」

「司令!」

はぐらかすような彼の答えに、浦辺は嘆願に近い声を出した。

「英雄は所詮人が作り出すものだ。血なまぐさい戦争になんやかんやと装飾をつけて、口当たりが良いものに変えてしまう。それが英雄譚だ。だが主人公はその胎の中に必ず底知れないものを持っている。それが資格だ。邪悪でも正義でも、結局は同じところでつながっている、そして」と、笹嶋は覚悟したかのように息を一つ吐いた。

「――あの男はそれを知っている。酷く嫌悪している。だが一方で許容してもいるんだ。だからいつも彼は狭間で苦しんでいるんだろうよ。もっとも、他人の前ではそんな態度はおくびにも出さないから、推測に過ぎんがね・・・でもそうだとしたら、なんとも矛盾した――魅力的な男じゃないか」

「つまり」と浦辺はさらに渋い顔をして言葉を継いだ。

「実像と虚像とは別物であると?」

「うん、それに、別の要因もあるね」

「要因?」

尋ねた浦辺に、笹嶋は微笑んで言った。

「『約束』したからな。――私は約束は守らないと気がすまない性質でね・・・とは言っても破ってばかりだが」

笹嶋はちらりと時刻器を見た。

部屋の中に重い沈黙が降りる。暫く黙った後で、先に口火を切ったのは浦辺のほうであった。

「―――人、を・・・待たせてあるのでしょう?」

意外だという顔をした笹嶋から顔を背けて浦辺はぶっきらぼうに言った。

「司令を・・・約束の守れない男にするわけにはいきませんから」

くしくもそれは、坪田が彼に言った言葉と同様であった。

笹嶋はそれに思わず破顔した。なにか懐かしいものが蘇ってきた気がした。暖かいものが体の中を吹き抜ける。

それは久しぶりの感覚であった。

しかし、浦辺はその意味を取り違えたのか、ますます不機嫌に言い放った。

「警告はしましたからね」

 

 

 

何故、自分の部屋に入るのにこんなに躊躇するのだろう。

と、笹嶋は自室の扉の前で思った。まるで死刑執行を待つ死刑囚のような気持ちで取っ手に手をかけると、ゆっくりと回す。

嫌に重たく感じるのは、錆付いている、わけではなさそうだった。

 

明かりはついていない。既に暗くなっている室内は不気味に静まりかえっている。正面のベッドは―――彼の予想に反してもぬけの空であった。

予想された最悪の情景が回避された事に関して、彼は心底安堵した。そして部屋を照らすべく電灯の切替機へと手を伸ばした。

軽い音が部屋に響く。が、電気は点かない。

暫くぱちぱちといじくり回した後、諦めてベッドの方へと歩いてゆく。たしか脇の机に蝋燭があった筈だ。

 

そこで、笹嶋は初めてあることに気づいた。

 

赤い目がある。

ちょうどその机の辺りに、ゆらゆらと揺れている赤い物があった。それは煙を引きながら時に鋭く光ったり、暗赤色になったりしながら上と下を行ったり来たりしていた。

まるで獲物を狙う剣牙虎のような――。

恐怖に支配される脳を必死で動かし、彼は考えた。

何故、剣牙虎がここに?船倉の檻に二頭とも入っている筈だ。自分も確認した。いや、そもそも剣牙虎の瞳は赤くは光らない。それに一つ目はいなかった。

だとしたら、

だとしたら。

 

何かが燃えるような音が小さく響き、やがて「それ」は、ふぅと煙を噴出した。

 

彼であった。

 

「・・・」

初めて笹嶋は、絶句した。

 

「遅い」

短い沈黙の後、低く唸るような声で彼はそう言った。

「一刻余計に待たされた」

「・・・すまない」

笹嶋は引きつりそうになる声を必死で絞り言った。

「予定よりも長引いてしまった」

「浦辺君との話が、ですか?」

「聞いていたのか」

笹嶋はバツが悪そうに言った。

「・・・たまたまです。部屋の前を通りかかったら、えらく熱心に話している声が聞こえまして」

すみません、と謝罪の気持ちの欠片もないような声音で彼は謝った。

「全部聞いていたのかい」

「大体は」

彼は苦笑したようであった。

「少々買被りすぎている帰来があるようですが」

それで、十分だった。

笹嶋は天に救いを求めるかのように、天井を仰ぎ見た。失態だ、笹嶋定信、一生の失態だ。穴があったら入りたいとは正にこの事だろう。もっともここは船上で穴は無いが、むしろ海水でも良いかもしれない。

電気が点かなくてよかった。笹嶋は、今自分がどのような顔をしているのか知られたく無かった。

勿論彼の顔も見たくなかった。容易に想像がつくだけに。

                                                                                      ・  ・  ・

「英雄云々は好みではありませんが、ともかく、嬉しい。理解者は、なにものにも勝る財産だと僕は改めて思います」

女を口説くときのような声音で、彼はそう呟くように言った。

 

 

いっそのこと船の穂先から身を投げようか。笹嶋は本気で、そう思った。